本殿向かって左に鎮座する。 境内社白山神社は今津町北生見にあったもので、式内小海神社に比定されていた。北生見地区が平成4年ごろ自衛隊の演習地となったために当社に移転したという。本殿向かって左手にあり |
由緒 ・当宮は神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命を勧請して阿志都弥(あしつひめ)大明神と称したことに始まり、延喜式内の名社で国弊社として祀られ上野山大社、櫻花大明神とも称されています。日本書紀によりますと木花咲耶姫命(葦津姫命)が、天甜酒を醸された御事蹟が登載され、又、推古天皇30年に新羅征伐副将軍の近江脚身臣が当地に住んで崇敬したお社であります。 御神徳の高い願望成就の神様として広く信仰を集めています。 ・天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶7年に加賀国(石川県)の国守に任命せられて、御赴任の途中に本社「阿志都弥大明神」に御参詣になって、御詠吟などせられて過ぎ行かれた由縁によって、公の御曾孫菅原大輔正朝臣が行過天満大神と称して、長徳4年8月5日に勧請建立になったのであります。尓來善積郷の総社として上野山大社、上野山天満宮、桜花大明神とも称されています。 」 建久2年3月15日に海津村神尾山(海津天神社)へ当宮各社の御分霊に道真公直筆の十六禅神、法華経等を添えて分社として遷宮したと伝えてられています。慶応2年4月5日神祇道菅領ト部朝臣良義より善積惣社号の神宜を受けました。学問芸術、厄除健康等神威顕著な神様として崇敬されています。 脇神 福禄寿天様は七福神の一つで、福徳、禄徳、寿徳を備えた霊験あらたかな方でありまして「七福神めぐり」に各地より参詣があります。 ・当宮は古来より善積郷八部落神社の総社として全部落の住民を崇敬者とし毎年四月の例大祭には各部落より出動した人によって神輿を担いで御旅所の住吉神社で祭典をして南浜まで渡御をしましたが、現在は弘川、宮西、中野の氏子によって担いでいます。 倭名類聚妙に登載された当郷社附属の八部落各神社は、白山神社(南生見)、熊野神社(蘭生)、白山・降宮神社(上弘部)、日吉神社(下弘部)、八雲神社(大供)、日枝・大水別神社(南浜)、住吉神社(中浜)、小海・大浜神社(南新保)であります。 皇室との御関係については天智天皇が志賀に都をお定めになられた以後、毎年当地産物の烏瓜の根を献上し又、刈安と言う草を、天皇御衣の黄色染料の原料として奉納していましたが、戦乱が続いたので廃絶しましたが、毎年四月の例大祭には必ず烏瓜の根を献じています。又御宝祚永世御祈祷の命を奉しましたので、以来毎年九月に当宮の御神璽に生栗一籠(約二升)を添えて献上しておりましたので、天皇の御撫物を当宮に御神納になり、毎年九月に新旧御取替になりました。その時金二両の御下賜があり、当宮の神璽を献上しておりましたが、明治40年命達により廃止になりました。 武家の崇敬については足利三代将軍義満より朱印地(神田七町歩)を寄せられたが、後織田信長の兄の子信澄が没収しました、憎むべきことであります。文禄2年以来毎年金沢城主前田家代々参詣になり、大祭には幣帛両(白銀五枚)の奉納がありました。元治元年松平筑前守慶寧が参詣以来毎年藩主が、又慶応元年大聖寺藩主松平飛騨守鬯侯の参詣以来毎年藩主が必ず参詣して幣帛料を奉納しました。 文久2年10月大溝藩主分部若狭守光貞侯の参詣以来毎年大溝藩主の参詣がありました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |