本来は水の神泣沢女神を祀るとも、大野氏の祖神を祀るともいわれている。 |
日吉神社 延喜の制國幣小社に列せられたる大野神社と称し、泣澤女神を祀り、延喜拾八戊寅年四月の創立なるも、後暦応年間大山咋神を阪本より勧請して日吉神社と改齋す。 明治九年拾月村社に列せらる。 神社明細書 |
日吉神社 明細書には由緒不詳であるが、延喜の制国幣小社に列せられた大野神社で、泣沢女神を祀ってきたが、暦応年間大山咋神を坂本より勧請して日吉神社と改称した。明治9年村社に列した。尚式内大野神社は三社が論社とされる。 滋賀県神社庁 |
鎮守の森 日本では、古代人は、「人は死ねば、魂が山にのぼっていき、やがて神になり盆や正月には、村人に祝福を与えるために里に降りてくる」ということ、つまり「死と再注」を信じていたとされています。この神を祖霊とか、氏神、鎮守の神とよびます。 それでは、神は、どのようにして「あの世」から「この世」へやってくるのでしょうか、神は目には見えないので、依りつくところである依り代が必要となります、古くから山や大きな岩、大さな木が依り代の代表であり、正月の門松や祭りの御幣、社(依り代となる屋という意味)も依り代であると考えられています。このようなことから、大木が繋り神社がまつられている森は、鎮守の森とよばれます、大沼の日吉神社境内にも、ケヤキなどの大木が繁っています、また大沼でダモとよんでいるタブの木は「タマ(霊・魂)の木」ともいわれ、大昔に南の国から渡ってきた人々がこの木にあこがれ、あの世からくる神の依り代と考えたとされています。 社頭掲示板 |
大沼 日吉神社の由諸(いわれ) むかし、ここから比西約1300メートルのところ、小字大野(庚申山の近く)に大野神社があリ、泣澤女神をおまつりしていましたが、1338年に百瀬川の氾濫によって流され、ここに流れ着きました,そこで、この場所に神社をおまつりし、人々も住居を移したと伝えられています。 そして、翌年には、大沼を、領有していた廷暦寺のあった比叡山のふもと、坂本の日吉社(日吉大社)におまつりされでいた大山咋神を勧請(神仏の霊を他の地に移〔ておまつりすること)して、日吉神社と名のるようになりました、このようにして、ここには、大山咋神と泣澤女神をおまつりしています。 ★汝澤女神 神を主人公とするお話である神話によると、伊邪那岐と伊邪那美の二神は、次々と島や国、神を産み出しましたが、伊邪那美は火の神を産んだために亡くなりました。この時に悲しんだ伊邪那岐が流した涙から泣澤女神が成り出たといわれ水の神とされています。大沼をひらいた先人は、おだやかな暮らしと豊かなみのりを願って水に祈りをささげていたのでしょう。 ★大山咋神 794年に都が奈良から京都に移され、都の鬼門をまもるために、最澄(伝教大師)が比叡山に天台宗延暦寺を建てました、その時、比叡山のふもとの坂本で、その地域をまもる神であった大山咋神が寺の守護神とされ、日吉山王とも呼ばれていました、室町時代に延暦寺の領地であった大沼も、大山咋神を勧請して日吉神社となりましたが、江戸時代までは山王禅師と呼ばれていました。 ★大野神社 明治時代につくられた「神社明細帳』には、大沼の大野神社について、「当社は、延喜の制 国幣小社に列せられたる大野神社と称し、泣沢女神を祀り、延喜18茂寅年(918)4月の創立」とあります、これは、平安代に制定された国の細かいきまりである延喜式に、朝廷から官社としで認められた式内社であることを示しています、しかし、高島市内には、式内社の大野神社ではないかと考えられている神社が三社あるので、大沼にあつた大野神牡は、そのうちの一つとされています。 社頭掲示板 |
大野神杜 大野は於保乃と訓べし○祭神大野氏祖神歟○在所詳ならず 姓氏録、(右京皇別上)大野朝臣、豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也、 類社 尾張国葉栗郡、丹後國竹野郡、伊豫國越智郡大野神社、(各一座)越前國大野郡國生大野神社、 神社覈録 |