志呂志神社
しろしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志呂志神社 近江国 高島郡鎮座

   【現社名】志呂志神社
   【住所】滋賀県高島市鴨2276
       北緯35度19分4秒,東経136度0分49秒
   【祭神】瓊々杵尊 玉依姫命
       『神名帳考証』事代主神
       『滋賀縣史』祭神不詳

   【例祭】5月 1日
   【社格】
   【由緒】宝亀元年(770)藪ケ原の地より今の地に遷座
       文治3年(1187)源頼朝社領寄進
       明和7年(1770)火災で村内八分通り焼亡
       天正2年(1574)再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】宝亀元年(770)藪ケ原の地より今の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「日吉三宮」「天皇社」と称していた
   【社殿】本殿一間社流造
       神器庫・拝殿・祝詞舎

   【境内社】

往昔川中島の白洲に鎭座していたと伝。
神域の東方に史蹟に指定されている稻荷山古墳がある。この被葬者との関連が考えられる。
おそらく現在地は志呂志神の本地十一面観音像を祀る本地堂であつて、何かの事由によつて藪ケ原の志呂志神が本地堂に移され現在の姿となつたのではないか。


稲荷山古墳

滋賀県指定史跡
稲荷山古墳
所在地 高島郡高島町鴨
昭和39年8月19日指定
明治35年の県道拡幅工事のさいに発見されたこの古墳は、後円部に横穴式石室を持つ前方後円墳で、発見当時は、長さ9m、幅・高さともに約1.8mの石室があったとされ、内部には凝灰岩質の刳抜式家形石棺が納められていた。棺内からは金銅製の冠や沓などの装飾品や馬具類などが、棺外からは須恵器類などの豊富な副葬品が出土しており、古墳の造られた時期は六世紀前半と位置づけられている。
また、この付近は古代の三尾郷に想定され、石棺や副葬品の状況などから継体天皇に二人の妃を嫁がした三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされ、滋賀県を代表する古墳のひとつとして注目されている。
平成8年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



志呂志神社

本社は確証記録等明和7寅年火災にて村内八分通り焼亡の節悉く焼失依て不詳と雖も旧來古老の申傳に云、杵命諸國御巡幸処々を納給ふ節の御像を奉齋神像にして御丈五尺有余あり。御冠は近來の冠と少し違ふ所あり。御装束は袖細にして方今の礼服に等し、年歴二十余年を経る由極古代の作にして刀の彫目も無之詳細難分。延喜式内の神社にして往昔川中島の白洲に鎭座し所知食天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白洲の神社とも申せし由。此鴨川往古堤なく南は永田村北は三尾里邊迄も処々に分流して一ならず。其の中央水盛なる処にて魚漁して月次の神供に供す。往古相応の社にして神田神樂等あり。中興只其他とのみなれり。仏法盛なるより以來社の修補すら比叡山僧供押領の地となり爲に難成神社は廃壊同様なり。神像を鴨御祖神と合殿に奉齋奉る。玉依姫命は神像四尺有余御立像御服大袖御髪御後口に垂れあり。外地より宝亀元戌年藪ケ原の地鎭座奉る。地名を天皇と字す。亦地券改正の際地名を稻荷と字す。

神社明細書



志呂志神社

明和7年火災にて村内8分通り焼亡のとき悉く焼失、延喜式内の神社にして住昔川中島の白州に鎮座し所知食天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由。明治9年村社に加列。

滋賀県神社庁



志呂志神社

志呂志は假字也○祭神詳ならず○鴨村に在す(考証

神社覈録



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