応神天皇の敦賀行幸の際に当地に宿泊され、その時の枕の石を神体としたのがこの神社の起原。 |
弓削神社 式内 弓削神社 縁起 当神社の入口に建つ石標に「式内弓削神社」と書かれているのは、「延喜式神名帳」の中に名が載っている古いお宮の弓削神社という意味を表しています。醍醐天皇の延喜7年(紀元907年)に左大臣藤原忠平が日本国中の神社をしらべ3132の社名を書かれたのが「延喜式神名帳」です その中に「弓削神社 近江国高島郡」と書かれていますが高島郡内で「弓削神社」という宮は他にありません 私たちの氏神さまこそ延喜式に載っている弓削神社であり紀元900年よりももっと昔からおまつりされて来た古い宮です 祭神 應神天皇 弓削王子 旧弓削八幡宮 若宮正八幡宮という 伝説によりますと應神天皇(紀元200〜300年)が今の福井県の「つるがの里」へ行幸される途中この地にお泊りになりました 里の人々は大変よろこんで小石を藤布につゝんで「御枕」にと奉りました 翌朝天皇が「この石をこの地の産土神としなさい」と仰せになりました 里人はさっそくこの石を御神体としてお宮を建て祖先の霊をおまつりしたのが この神社のはじまりだといわれます また溝渕川のそばの「みごし石」はこの時天皇のお休みのためにと里人が奉ったものと伝えて今も大切にしています 文徳天皇の嘉祥4年(紀元851年)4月3日に菅原高成朝臣が検地のため「川上荘」に来られたとき この地にお泊りになりました ところがその夜大へんふしぎな夢を見られたので「此の地は八幡大神のおいでになる土地にちがいない」といわれ武勇の神八幡大神のため竹を削って弓を作り一緒におまつりになりました この時から この地を「ふしぎ野ゆめが原」といゝそれがなまって后には「しぎ野梅が原」といわれるようになったそうです 今も小字名に「鴫野・梦野」があり一月に「弓始め」の行事があるのはそのためかと思われます 八幡さまは源氏の氏神ですから源氏の人々がよくこの宮にお参りしました 治承年間(紀元1170年頃)源頼政が宇治の平等院の戦に平氏に敗れて自殺しましたがその子仲綱は六部(じゅんれい)の姿になって丹波の国からここへ逃げて来て土地の女と北山に住んだといわれ「六部やしき」という地名が近くまで残っていたそうです この弓削神社を氏神として今日まで続いて来た私たちの部落「梅ヶ原」は一体いつから始まったのでしょう 古文書によりますと神武天皇の8年に荒谷佐賀美という人が山野を少し開いて田畑を作ったのがそもゝの始まりで孝昭天皇(第五代)の御代には御孫の壱師君・近淡海国造が里人に命じて多くの土地を開拓しました その后星川淡海臣が溝や河を掘って水利を調え田畑を全く開拓されたと伝えています これらのことが今から何年前かということにはいろゝと異論がありますが千何百年かの遠い昔から私たちの祖先がこの氏神さまを中心に生活を続けて今の姿に育てゝ来られたことは間違いありません 歌人として名高い藤原竣成(紀元1190年頃)が当社に参って詠まれた和歌が歌集「歌枕春の寝覚」に載っています 春の日の光はきはもなけれども まづ咲く花は 梅原の山 この歌のように春の日がいつもこの里を照らし花咲く梅ヶ原の里と栄えて行くよう 心を合わせ弓削神社をおまつりつゞけて千年来の祖先の志を受けついで行きましょう 社頭掲示板 |
弓削神社 応神天皇が越前国敦賀に御幸の時、この地に御休泊、その時の枕石を祀て産土神とした。嘉祥4年菅原高成朝臣検地の時、八幡垂跡の地として小竹を削り弓を作り幣を建て石体を八幡宮の神霊とした。弓削の発生である。式内社明治9年村社に加列。 滋賀県神社庁 |
弓削神社 弓削は由介と訓べし、和名抄、(郷名部)河内國、若江郡弓削、(仮字上の如し)○祭神弓削氏祖神歟○在所詳ならず、」姓氏録、(左京神別下)弓削宿禰、高魂命孫天日鷲翔矢命之後也、(河内國神別弓削宿禰も亦同じ)また、弓削宿禰、出自天押穂根尊洗御手、水中化生神爾伎都麻呂也、同、(左京神別上)弓削宿禰、石上同租、神饒速日命之後也、 類社 河内國若江郡弓削神社二座(並大、月次、相嘗、新嘗)甲斐國八代郡弓削神社、 神社覈録 |