大荒比古神社
おおあらひこじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大荒比古神社 二座 近江国 高島郡鎮座

   【現社名】大荒比古神社
   【住所】滋賀県高島市新旭町安井川844
       北緯35度21分20秒,東経136度0分50秒
   【祭神】大荒田別命 豊城入彦命
        (配祀)少彦名命 仁徳天皇 宇多天皇 敦実親王

   【例祭】5月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観5年従五位下
       嘉禎元年(1235)2月11日四座を配祀
       天正2年(1574年)社殿再建
       正保3年(1646)造営
       文化7年(1810年)造営
       明治9年村社
       明治16年10月11日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】江戸時代は「河内社」と称していた
   【公式HP】 大荒比古神社
   【社殿】本殿三間社流造
       手水舎・社務所・神饌所・絵馬殿・神輿庫・拝殿・神門

   【境内社】

「大荒」は水害を意味し、これを鎮める爲に大荒比古が祭られたと思われる。
この地に川の氾濫を齋い鎮める爲の祭祀が行なわれたことは推測される。
南北朝時代から室町時代にかけては佐々木一族の絶大な崇敬を受けた。


由緒

神社の草創は不詳であるが、今より約1200年前、寛平元年(889年)までの祭神は豊城入彦命と大荒田別命の二柱であった。豊城入彦命は、崇神天皇の皇子で、その四世孫が大荒田別命である。大荒田別命は大野氏の祖である。相殿に配祀の四座は、佐々木信綱の子、高信が比叡谷城にあった嘉禎元年(1235年)本領佐々木における累代奉祀の四神を当社に合祀し(この時代を河内大明神と称す)地主権現とした。兵火のため、社殿灰燼になったが、天正2年(1574年)社殿を再建。天保3年(1647年)領主小浜侯酒井忠勝は社殿及び神輿を修理した。文化7年(1810年)現在の社殿建立、明治16年郷社に列せられ、大正3年現在の位置へ改築。また鳥居は明治17年建立、昭和31年現在の石造鳥居を建立した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大荒比古神社

祭神は豊城入彦命、大荒田別命、佐々木氏ゆかりの四神で式内社である。例祭は5月10日で七川祭と称し、県選択無形民俗文化財となっている。奴姿で的を持ち練り歩く的練と酒樽をかつぎユーモラスに振り歩く樽振の奴振や、馬場での流鏑馬など湖南地方最大の祭である。境内の森は椎の極相林で、附近には縄文時代から室町時代の遺跡が散在している。

社頭掲示板



七 川 祭 (大荒比古神社)

1235年、佐々木高信が高島郡の領主になり、それ以後、西佐々木氏は大荒比古神社を一族の守り神として崇拝してきました。出陣の際には神前に戦勝を祈り、凱旋しては神前に戦勝を感謝していました。この時、12本の的と12頭の馬を神前に奉納したのが例年5月4日、大荒比古神社の例祭として繰り広げられる七川祭のはじまりであるといわれています。七川祭は湖西随一の馬祭であり、この日に奉納される「奴振り」は、昭和34年に滋賀県選択無形民俗文化財に指定されています。

http://www.d9.dion.ne.jp/~t-kankou/kodawari/manpuku/13sprig.htm



大荒比古神社

当神社は式内社にして、祭神は豊城入彦命大荒田別命の二座なり。延喜式神名帳及大日本史に見へたり。當神社は大河内荘即ち元井ノ口、元安養寺、元川原市、元北畑、元新庄、元平井、元十八川、元堺村の八ケ村古來の郷社且氏神にして、中古當國管領佐々木家累代崇敬の神社有之、就中近江太守佐々木信綱朝臣の二男越中守高信、父信綱の命により文暦元年3月上旬より高島淺井の両郡を領し、嘉禎元年2月11日勅許を経て、累代の祖神少名彦命仁徳天皇、宇多天皇敦實親王の四座を當社へ配祀し深く尊敬せらる。其他領主有格者の尊敬少なからず、近きは旧藩主鞠山藩酒井讃岐守忠勝は当社を尊敬し、建物を改造し神輿を修繕し参拝せらる。以後一世一度参拝奉幣せらるるを以て恒例とす。明治3年越前國鞠山藩を廃せられ小濱縣に属す。然して古來の由縁を以て全縣管下の主社と定め、明治4年6月11日臨時大祭を行はれ、兵部権大属を以て代参せられ、明治9年本縣に於て縣郷村社制定の際村社に下格せられしも、明治16年10月11日郷社に昇格せらる。
寛平5年3月皇后染殿御病御祈願の爲め寛平新銭三貫文を献納在らせらる。

神社明細書



大荒比古神社

延喜式内社で創建は明らかでないが、配祀の四座の祭神は、当地の領主であった佐々木高信が比叡谷城にあった時、嘉禎元年大荒比古神社に本領佐々木における累代奉祀の4神を勧請してこの神社に合祀した。この頃、当神社を河内大明神と称し、地主権現とした。天正年中、兵乱のため社殿が焼失したが氏子は社殿を再建し、祭祀を勤めた。以後一世一度は参拝し奉幣した。寛文10年小浜藩士中より石灯籠2基を奉納、文化7年(1810)現在の社殿建立、享保3年、安永6年に拝殿再建。明治4年郷社に指定され、小浜県より臨時大祭を行う。明治9年滋賀県の社格制定の際、村社に列せられ、同16年郷社に昇格。大正3年現在の位置へ改築。当社には湖西地方随一の大祭七川祭があり、”奴振り”は(県選択無文)有名である。この祭りは昭和31年県の無形民族文化財に選択され、現在も流鏑馬、奴振り、競走馬、鉾、鉦、太鼓行列、神輿渡御等が行われている。

滋賀県神社庁



大荒比古神社 二座

大荒は於保安良と訓べし、比古は假字也、○祭神明か也○在所詳ならず、社家注進、蒲村大鍬大明神、(光陶云、井ノ口村なる河内社也といふ)

神社覈録



郷社 大荒比古神社

祭神 豊城入彦命 大荒田別命
相殿 少彦各命 仁徳天皇 宇多天皇 敦實親王
創祀年代詳ならす、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、大河内庄の産土神にして、中頃佐々木家の尊崇厚く、高信の時、父信綱の旨を承けて其祖神少彦名命以下四神を合祀す、時に四條天皇嘉禎元年3月なり、其後世々領主豪族の尊崇淺からず、後光明天皇正保3年には、若州小濱城主酒井忠勝社殿を改築し。神輿を修理し、且つ自ら社参す、爾後一世一度当社奉幣するを恒とす、明治4年6月11日、旧小濱縣より臨時祭を行はれ、矢部権大属の代拝あり、明治9年村社に定まり、16年10月郷社に列す、境内930坪(民有地第二種)、杜殿は本殿、拝殿、神輿庫。嗽水含、社務所等を有し、地饗庭野の中央に位し、樹林鬱蒼して昼猶暗く、詣者自ら粛然たり、御神体は生石幣帛なり、宝物には縁起書一巻(源氏卿染筆)、十文字槍一(銘兼久)、太刀一振、短刀一口、其他鎗二あり、因に云ふ、劒熊村大字浦に大荒彦神社と称するあり、古来論争の社なれど、何れも確証なければ決定し難し。

明治神社誌料



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