往古腹赤の池に大蛇がいて人民を悩ましていた。垂仁天皇の時、素盞鳴尊、稻田姫命が自現してこれを退治した。その時の大蛇の尾より得た剣を投げて、それが留った里に岩剣の神を祀った。 |
由緒 日置神社は川上荘の総社であって祭神は素盞嗚命、日置宿祢命、稲田姫命、武甕槌命、大国主命を合祀しています。 元は酒波岩剣大菩薩といい、徳川時代(1603〜1676年)には日置山岩剣大明神、または日置山岩剣宮と言いました。 律令制度が布かれると各地に荘(庄)が置かれましたが、北組(南深清水、北深清水、桂、北仰)西組(酒波、伊井、三谷、平ケ崎)南組(構、井ノ口、中ノ町、辻、石田、梅原、岸脇)を合わせて「川上荘」と言いました。毎年4月18日、川上祭礼が行なわれます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日置神社 延喜式神名帳ニ書載スル日置神社則チ是レナリ。大日本史日置神社今在酒波村ト記載アル社。和名抄高島郡十郷ノ内川上郷ト載セタルハ則チ當郷ニシテ、今猶川上村ト称ス。其ノ原因當社祭神ヨリ起り附シ名称ニシテ、出雲國簸ノ川上ノ縁故ナりト云ヘリ。社傳當神社ハ延喜式社ニシテ祭神日置宿禰命、素盞鳴命、奇稻田姫命、武甕槌命、大國主命、武内大臣、源頼道公ノ八柱(註、天櫛耳命が脱落してゐる)ヲ合祀シテ日置神社岩劒大神ト称シ、川上郷ノ遠祖ナリ。抑モ人王11代垂仁天皇御宇大神当庄ヲ開始シ、大蛇ヲ退治シ給ヒシ功蹟ヲ称賛シテ天奏アリ、同13代成務天皇甲午歳勅使武内大臣ヲシテ宮居ヲ創立シ賜フ。 明細書 |
日置神社 一、由緒 人皇11代垂仁天皇御宇甲午歳當郷山内に大蛇住して多くの人民を悩まし既に蛇國と成らむとす。萬民の痛歎止むことなし。故に此氣天に通移し再び素盞鳴命自現し給ひ大蛇を退治し給ふ。故に人民災ひを免がれ山内へ稼に立入し安穏に住居することを得るに至れり。是に依りて天奏あり。13代成務天皇の所知食す戊午歳勅使武内大臣をして字岩神に宮居を創立し給ひ宝祚泰平の祈願所となし四至の傍示を定め賜はる。此四至内の地主総社と齋祀し給へり。其後日置宿禰岩神の宮を佐々波の(今の酒波村是なり)栗林に遷し給ひて武甕槌命天櫛耳命を相殿に祀りて日置神社岩劔大神と称し奉れり。 一、花山院の御宇寛和2年左大臣藤原兼家公の執奏にて当社岩劔大明神に大菩薩號の勅額を被賜後ち元亀3年3月16日織田信長公の兵火にて焼失す。 一、後朱雀院御宇長暦3年卯4月11日親仁王子の勅に依て中臣佐親公を官使として始めて神祭を行ひ給ふ。爾來宮祭の儀式を相傳山手の神事と称して毎年4月初午の日を以て祭礼を勤務す。然るに維新の際之れを21日となし尚ほ明治27年より4月18日と改正せり。 一、後冷泉院帝より天喜5年大般若経六百巻御寄附被爲在但し當方酒波寺に預け置く。此箱に敷たる御簾の切れは三國傳來と云へり。経文は弘法大師の眞筆なりと云ふ。 一、後鳥羽院御宇建久3子年武家の領地となる。北條家の良等並片兵衛之助國中古跡の社寺諸役御免除の御下知ありて社領を除地と定め給ふ。即ち当今上地となりしもの是なり。 一、伏見兵部卿貞建親王より御壊紙並御眞筆奉納在せらる。 一、佐々木家四所の氏神其一にして崇敬厚く其後諸家の領地となれども地頭代々旧例に頼て氏神同一に信仰深く祈願所として代々奉納の物品等あり。 滋賀縣神社由緒記 |
日置神社 元酒波岩劔大菩薩と称し徳川時代に岩劔大明神、若岩劔宮と称した。日置山という山号があって日置神社と定めたのである。日置神社は式内社で縁起には腹赤の池に大蛇あって人民を悩まし垂仁天皇の時代に素盞鳴命、稲田姫命自現あって退治し給い、其の大蛇の尾より得たる劔を投げて留まりし里に岩劔の神として崇めた。武内宿弥の霊夢により社殿を創建し正徳2年9月に社殿を再建した。日本書紀景行天皇39年の条に五十瓊敷皇子が茅淳○砥川上宮にて剣一千口を作りし時10箇品部を定めて皇子に賜いし時にその内に日置部があった。川上庄内の総社で、明治9年郷社に加列。境内には関白頼道塔という高さ8尺許りの五輪石塔があり、俗に宇治権現と称し毎年2月7日に祭典がある。観応2年若狭三方能登倉見より山手として大般若経第百巻が寄進されている。 滋賀県神社庁 |
日置神社 日置は比於木と訓べし、和名鈔、(郷名部)薩摩國日置、(仮字上の如し)○祭神在所等詳ならず、社家注進、酒波村岩劒大明神、(光陶云、森四村にあり、國主神社というて紛るゝ也、) 類社 尾張國愛智郡、信濃國更級郡、若狭國大飯郡、加賀國江沼郡、越中國新川郡、但馬國氣多郡日置神社、(各一座) 神社覈録 |
郷社 日置神社 祭神 武甕槌命 素戔鳴命 天櫛耳命 奇稻田姫命 武内大臣 日置宿禰 大國主命 頼道公 一説高魂命を祀るといふ(神名帳考証、成務天皇48年勅命によりて字岩神に創祀す、初め垂仁天皇の朝当郷山中に大蛇ありて人を害す、民人甚だ之を憂ふ、時に素戔鳴尊自ら現はれて大蛇を平げ給ふ、依りて此に至りて勅祭の事あり、以て宝祚の長久を祈らせたまふ、後日置宿禰岩神の社を佐々波(洒波)の栗林に遷し、同時に武甕槌命、天櫛平命を相殿に合祀して日置神社、岩剣大神と称す(社記)、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)花山天皇寛和2年、左大臣藤原兼家の執奏により、当社に大菩薩の勅額を賜ふ、後朱雀天皇長暦3年4月11日、親仁親王の命によりて、中臣佐親を使として始めて官祭を行はせたまふ、是より毎年官祭を行ふの例となる、之を山手神事と称す、後冷泉天皇天喜5年般若経六百巻を献納し給ふ、同天皇治暦4年、後三條天皇延久3年、堀川天皇康和3年、二條天皇平治元年、四度の宣旨によりて、九万八千町の山を下して当神社神事の料とし給ふ、後島羽天皇建久3年社領を除地とせられ、崇光天皇観応元年11月には、足利尊氏更に当神社神事料の山内に下知書を下して、其社領たることを確實にせり、殊に当社は佐々木氏の崇敬甚だ厚く、後領主数交代すと雖も、皆之を崇敬し、夫れぞれ進献の物品あり、明治9年郷社に列す、境内2069坪(官有地第一種)を有し、杜殿は本殿、拝殿、其他嗽水倉等を備ふ 明治神社誌料 |