大荒比古神社と鞆結神社の二社並立の神社。 鞆結神社は、仲哀天皇が越前国角鹿へ行幸のおり、御親二柱を道中の行宮に祭った。 大荒比古神社は荒乳山麓にあったが水災で、文保年間に鞆結神社に合祀した。 旧地は知内川が越前境から南下し大きく西方に迂回するところ。 |
大荒比古神社鞆結神社 靹結神社ハ高島郡浦村ノ産土神ニシテ、仲哀天皇御宇ノ草創ナリ。天忍日命、誉田別命ヲ祭祀シ、大荒比古神社ハ豊城入彦命、大荒田別命、大己貴命、須勢理姫命ヲ祭祀ス。本社ハ初メ荒乳山下ニ御鎭座アリシガ、文保年間水災ニ依リテ靹結神社ニ合祀シ、今ニ相殿ニ座シマセリ。両社ハ式内ノ社ニシテ、歴朝ノ御崇敬甚厚ク、中古以來勅願所ト崇メラレ、世々ノ武將モ大ニ尊崇セリ。建武ノ昔、新田義貞ノ春宮恒良親王ヲ奉シテ越前國ニ下リシ時、春宮ハ義貞ト共ニ当社ニ参拝セラレ、御太刀一腰ヲ奉リテ御所念、アラセラレタリ。元治元年6月禁裏御祈仰出サレ、神札献上ス。其後慶応2年孝明天皇御悩ニヨリ臨時御祈仰出サレ、同年12月27日ヨリ翌3年正月3日迄七日ノ間御祈念ヲ行ヘリ。幣帛料トシテ銀三枚御奉納アラセラレ、同年12月25日御撫物御奉納アラセラレタリ。(御撫物ハ全國一般御返上ノ御達ニヨリ明治4年8月9日宮内省へ返上) 又往古朝廷ヨリ随時ニ贈□ 明治9年10月11日内□□四十五號ヲ以テ郷社ニ指定セラレタリ。 神社明細書 |
大荒比古神社・鞆結神社 本社は2社合併の社にて大荒比古神社は仲哀天皇越前国角鹿行幸の節其の道の荒路山麓に御親2柱の神を祀る。花園天皇天保年間水災に依って鞆結神社に合祀されたその時鍬にて神霊を助けたことにより神紋は鍬形で大鍬さんの名今に伝わる鞆結神社は仁明天皇嘉平中友井の地に祀られたと云う、共に式内社である。建武年間新田義貞恒良親王を奉じて越前の国に下りし時親王義貞と共に参拝祈念せられ太刀一腰を奉納すその太刀現存する、元治元年禁裏御所祈願抑出され神符を献上する慶応2年孝明天皇御悩みにより祈願抑出され同3年撫物御舎等奉納あらせられる撫物は一般返上の達しにより明治4年宮内省に返上する、社殿は慶長19年の再建にて棟札現存する明治9年郷社に列せられる大正4年11月6日神饌幣帛料供進神社に指定せられる。尚大荒比古・鞆結両社共式内社については現在論社となっている。 滋賀県神社庁 |
靹結神社 靹結は止毛由比と訓べし、和名鈔、(郷名部)靹結、(仮字上の如し) 神社覈録 |
郷社 大荒比古・鞆結神社 祭神 豊城入彦命 大荒田別命 相殿 大己貴命 須勢理姫命 天忍日命 本社は二社合併せる者にて、大荒比古神社初荒乳山麓にありしが、花園天皇文保年間水災に依りて鞆結神社に合併せり、鞆結神社は高島郡浦村の産土神なり、両社共に創建年代詳ならずと雖も、共に式内の古社にして歴朝の崇敬厚く、中古以來勅願所とせられたり、伝説に拠れば、仲哀天皇越前國角鹿行幸の節、此の地の行宮に二柱の神を祭り給ふ。これ大荒比古神社なり、仁明天皇嘉平年中鞆結神社を奉祠すと云ふ、建武年間新田義貞恒良観王を奉じて越前下向の節、親王義貞と共に参拝祈念せられ、御太刀を奉納あり、元治元年6月禁裏御祈仰出されしにより神舞を献上す、慶応2年孝明天皇御悩により御祈仰出され、同3年12月25日御撫物奉納あらせられたり。現今の社殿は慶長19年5月の再建なり、社殿一宇、境内凡600坪(官有地第一種)、古杉森々として風致に富めり、御神体は御像にして、實物は後光明天皇十歳の御時の宸筆龍虎二字の額、恒良親王奉納の太刀、菅原道真筆なりと云ひ傅へたる紺紙金泥の法華経八巻等あり、 明治神社誌料 |