大田神社
おおたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大田神社 近江国 高島郡鎮座

   【現社名】大田神社
   【住所】滋賀県高島市新旭町太田1468
       北緯35度20分16秒,東経136度3分18秒
   【祭神】大年神 菅原道真 (合祀)天津久米命
   【例祭】5月3日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】弘仁元年4月11日創建
       文永元年6月11日六所大明神を祀つて社殿を再建
       応安元年頃には既に菅公を合祀
       応永31年9月25日大田天満宮と称した
       享保4年3月本殿造営
       同8年改築
       文禄年中青地城主武運盛隆祈願
       明治5年6月式内大田神社と旧に復した
       明治9年村社

   【関係氏族】大田宿弥
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天満宮」と称していた
   【公式HP】 大田神社
   【社殿】本殿流造
       手水舎・絵馬殿・社務所・神饌所・祭器所・拝殿

   【境内社】

延暦の頃大伴大田宿禰の裔である大伴福美麿と河行紀がこの地に来りて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年祖神天押日命を祀って大田社を創立した。


由緒

当社の創立は明らかではないが、社伝によると延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが始めであるという。
すなわち嵯峨天皇の弘仁元年4月11日、大伴福美磨と河行紀との建立である。
後に美作国(岡山県)佐良山から久米氏の一族が来住すると、その祖神「天津久米命」を摂社として来目社(後の若宮神社)と称へ蒲生に奉祀した。又「猿田彦大神」をまつったともいう。
当社は延喜制に定められた小社に列せられたいわゆる式内社である。
亀山天皇の文永元年6月1日(昭和52年より616年前)に本殿を改築した。この時の御祭神は「六所(りくしょ)大明神」である。
菅原道眞行は応永31年9月25日に沙門明了比が、京都北野天満宮の管理者である曼殊院法親王の令旨によって勧請した。
吉野時代には相当に信仰圏も確立し、時代の優秀な石造建築の灯籠等も献納され、後奈良天皇の永正年中には新庄城將の浅見対馬守から太刀が一振、天文13年には同多胡新兵衛から唐鞍壱具が、又同人及び饗庭対馬守入道覺音から鰐口壱個、文禄4年9月には栗太郡青地城主一弘より武運長久の祈願文と社領拾貫文が寄進された。
後西天皇の皇女林丘寺宮栄内親王より、「天満宮」の御揮毫が下賜された。
元禄15年2月菅公八百年の万灯祭には、京都在住の氏子の歌人青地慶安は、門弟の赤穂義士小野寺十内夫妻等と共に、神祇和歌一巻きを献納、又西洞院大納言田中左近は剣一腰を奉納した。
享保3年より翌年12月に本殿及び境内末社・四社を、同じく17年には拜殿を改築した。現在の社殿はこれである。
寛政5年12月宮中五条殿の御取持にて、曼殊院竹内宮(門跡)の直轄に属し、御書・絵符等を使用することが許された。
文政12年3月菅公神忌九百年齋行、同年氏子坂江吉右衛門、京都杉浦三郎兵衛より絵馬殿一棟及び神馬の絵馬一面を、奉納される。
天保年中に大溝藩主分部光寧公参拜の上、幣物奉奠せらる。 
嘉永5年神忌九百五十年祭を齋行、この年に本殿と拜殿との間に渡廊下を建設する。
明治元年従来の「天満宮」の名称を、延喜式内社の確定により「大田神社」と旧称に復する。
明治6年正徳元年より宮衆(宮座)による神社運営を廃止して、専任の神職を選出する。
明治9年村社に列せられる。
明治18年3月18日摂社若宮神社を本社へ合祀する。
明治35年菅公神忌千年祭万灯祭を齋行する。奉賛会を「東風会」と称して、会長に祭神の後東坊城徳長をいただく。
小松宮彰仁親王より、社号「大田神社」に御染筆を下賜せらる。現在の鳥居の額の文字はこれである。
英照皇太后(孝明天皇の后)の御物扇子一握を、元千種権典侍内の中條並浪子より奉納される。祭器庫土藏一棟を新築する。
大正4年5月従来の木造両部大鳥居を、石造明神鳥居に改む。
大正12年菅公御鎮座五百年祭を執行する。
昭和4年2月社務所を新築する。
昭和4年2月9日神饌幣帛供進社に指定される。
昭和27年3月菅公神忌千五十年祭万灯祭齋行する。
昭和37年3月児童遊園地を造成する。
昭和39年12月15日、大田護国社を創建する。
昭和50年11月菅公御鎮座五百五十年祭を齋行する。同時に神輿庫の改築及び社務所を改造する。
昭和52年11月神忌千七十五年祭半万灯祭を齋行する。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大田神社

本殿 一棟
 このお社は式内社です 大伴大田宿禰の末裔が延暦年間(800年ごろ)に この地に移住して太田村を開き この神社が創立されました。本殿は三間社流造・向拝一間元はこけら葺で 建立年代は 神社に残る棟札から享保3年(1718)であることがわかりました。
 近世中期にさかのぼる わりと規模の大きい神社本殿で、保存状態も非常に良く 外観に関しては(屋根は除く)ほとんど当初のままと考えられます。良質の材料を用い 隅々まで丁寧に仕事がされています 彫刻が建物全体にわたり要所に施され、建立当初の状態をよく残し、質の高い確かな建築技術で建立された貴重な建物と云えます。
木造 僧形菅公坐像(胎内納入経)一躯
 室町時代(今から約600年前)の作、像の高さ27.4cm檜材、彩色、玉眼を入れ、全面に白土の下地をおき、肉身部は白、衣は黄土色に彩色し、眉目に墨、唇に朱をもちいた天満大神像で、胎内に経典類が入っています。
木造 僧形女神像 一躯
 南北朝時代(今から約650年前)の作、像の高さ26.5cm、檜材、彩色、ヒノキの一本造り、頭頂に髷を結い、両肩に髪を垂らし、衣は左前で、両手は包み、目を伏せた写実的な表情です。脚部は簡略にした当時の通例の神像です。
昭和62年新旭町指定文化財

社頭掲示板



大田神社

立年月日 弘仁元年4月11日大田神社は延暦の頃大伴大田宿禰の裔である大伴福美麿河行紀がこの地に來りて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年祖神天押日命を祀りて大田社を創立した。(社傳)当社は延喜式所載の神社であつて、一に大年神を祀つて居る。文永元年6月11日に國子六所大明神を祀つて社殿を再建し、(棟札)応安元年頃には既に菅公を合祀して天満天神宮と称し(経文)て居たが、応永31年9月25日には山城國曼殊院法親王の令旨によつて菅原道眞の霊を勧請し、爾後大田天満宮と称して居た。(社藏経文)享保4年3月には本殿を、同8年には拝殿及末社を改築した。古來武將の崇敬も敦く、永正年中には新庄城將から大刀、天文3年には同じく唐鞍及鰐口の献納があり、文禄年中には青地城主の武運盛隆の祈願があつた。御西天皇の皇女林丘寺宮宗榮内親王から天満宮の御染筆を下賜せられた。寛政12年には、曼殊院門跡の直轄に属した。明治5年6月には天満宮なる名称を改めて、式内大田神社と旧に復した。明治35年小松宮彰仁親王より社號大田神社の御染筆を御下賜になつた。

神社明細書



大田神社

明細書に創祀年代不詳であるが、社伝によると大田神社は延暦の頃大伴大田宿彌の裔である大伴福美麿河行紀がこの地に来りて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年祖神天押日命を祀りて大田社を創立した。当社は延喜式所載の神社であって、一に大年神を祀っている。文永元年に國子六所大明神を祀って社殿を再建し、応安元年頃には既に菅公を合祀して天満天神宮と称していたが、応永31年には山城國曼殊院法親王の令旨によって菅原道真の霊を勧請し、爾後大田天満宮と称して居た。享保4年には本殿を同8年には拝殿及末社を改築した。古来武将の崇敬も厚く、永正年中には新庄城将から大刀、天文3年には同じく唐鞍及鰐口の献納があり、文禄年中には青地城主の武連盛隆の祈願があった。寛政12年には、曼殊院門跡の直轄に属した。明治5年には天満宮なる名称を改めて、式内大田神社と旧に復した。明治35年小松宮彰仁親王より社号大田神社の御染筆を御下賜になった。明治9年村社に列格。

滋賀県神社庁



大田神社

当社の創立は明らかではないが、社伝によると大田神社は延暦の頃大伴大田宿彌の裔である大伴福美麿、河行紀がこの地に来りて開拓し、祖先の名を地名となし、弘仁元年祖神天押日命を祀りて大田社を創立した。当社は延喜式所載の神社であって、一に大年神を祀っている。文永元年に國子六所大明神を祀って社殿を再建し、応安元年頃には既に菅公を合祀して天満天神宮と称していたが、応永31年には山城國曼殊院法親王の令旨によって菅原道真の霊を勧請し、爾後大田天満宮と称して居た。享保4年には本殿を同8年には拝殿及末社を改築した。古来武将の崇敬も厚く、永正年中には新庄城将から大刀、天文3年には同じく唐鞍及鰐口の献納があり、文禄年中には青地城主の武連盛隆の祈願があった。寛政12年には、曼殊院門跡の直轄に属した。明治5年には天満宮なる名称を改めて、式内大田神社と旧に復した。明治35年小松宮彰仁親王より社号大田神社の御染筆を御下賜になった。明治9年村社に列格。

公式HP



太田の硝子灯(ガス灯)

ガス灯は、明治時代初期に全国的に広がり、文明開化を象徴する産物の一つといえます。
この硝子灯(ガス灯)は石柱北面に「明治十四年九月願主信」とあること、また大田神社の記録によると明治14年5月に坂江吉右衛門という人物が二基の硝子灯を神社に奉納したとされていることから、明治期に設置されたことがわかっています。またもう一基は、同じ記録から当時太田にあった夜間学校の蛍雪学舎の玄関付近に建てられていたことがわかっています。
このガス灯は、石灯籠形で石組四角基台部・六角石柱上に設置され、外側に湾曲した六本の鉄筋に支えられています。光室は上方より下方が小さな六角行灯の骨組のみ残し、もとは硝子で囲われていたと思われます。
太田のガス灯は市内はもとより県内でも希少で、明治期における近代化の様子を今に伝えています。
高島市教育委員会

社頭掲示板



大田神社本殿

滋賀県指定有形文化財大田神社本殿
【名称】大田神社本殿
【員数】一棟
【構造形式】本殿一棟 三間社流造、向拝一間、銅板葺
附棟札一枚
奉再造営亨保三年
戊戌夏五月二十六の記があるもの
【所有者】宗教法人大田神社
【所有者の住所】高島市新旭町太田1468
【所在地】同右
建物の概要
大田神社は、安曇川下流北岸の太田集落の中央北隅に所在し、境内は、鳥居・拝殿・渡り殿・本殿をほぽ直線上に南向さに配する。
大田神社は祭神に大年神と菅原道真を祀る。神社の創立は、社伝によると、延暦年間(782〜806)の太田村の開村に遡り、延喜式内社に列する古社とされる。
現在の大田神社本殿は、棟札より享保3年(1718)5月26日に工事に着手し、同年閏10月16日に完成、翌亨保4年(1719)3月11日に落慶、遷座したことがわかる。
本殿の形式は、規模の大きい庇付き三間社流造で、縁を正側面にめくらし、向拝は一間で、中央に一間分の浜床を設ける。
大田神社本殿は、保存状態が良好で当初部材の残存率が高く、建立時の形式を良く伝えており上質の檜材・欅材を用い丁寧な仕事でまとめられた、質の高い大型の三間社流造本殿である。
当本殿は、中世以来の滋賀県の伝統的な三間社流造を基本としながら蟇股や妻飾り・縁障子などに透かし堀り彫刻を多用し、すべての柱上に木鼻を設けるなど華やかな装飾が施され(いる。また、庇の両側面を坂壁、正面蔀戸を裏板張りの格子として庇を閉鎖的にするなど、近世的な特徴を備えている。
近世の高島郡には、高い技術を持った大工集団が存在していたことが知られているが、大田神社本殿は、棟札に高島郡の太田組大工の名がみられ、高島郡大工が造営に関わったことが明確な建築としても価値が高い.
なお、棟札に「親矩 摂州大坂宮屋甚兵衛」とあることから、大坂の大工宮屋が規矩に関与したこともわかり、当時の建築普請における高島郡と大坂との繋がりをうかがう上でも注目される本殿である。
旧高島郡内には、中世の三間社流造本鍛として、明応6年(1497室町時代)建立の若宮神社本殿(重文)が所在するが、大田神社本殴は建立年代が明確で、高島郡内における江戸時代中期の基準的な三間社流造本殿として重要な建造物である。
平成23年3月24日指定

社頭掲示板



絅斎書院

承応元年(1652)にこの地に生まれた浅見絅斎は、名を安正、字を重次郎という。
京都で医学、後に山崎闇斎に儒教を学び、錦百講堂を開き弟子を教えた。性剛毅廉潔尊皇の心篤く仕官せず、清貧窮乏であったが志を曲げなかった。赤心報国を刀に刻み、中国誠忠の士八人の略伝を『靖献遺言』に著し、幕末の勤王の志士たちの精神的原動力となった。

社頭掲示板



大田神社

大田は於保多と訓べし○祭神詳ならず、猿田彦大神歟、○今太田村に天満宮と称する社あり、是当社の地也と云り、(與地志略)
類社
山城國愛宕郡太田(古本大田に作る)神社、摂津國嶋下郡太田(秘釈大田に作る)神社(鍬靭)

神社覈録



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