唐崎神社
からさきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大川神社 近江国 高島郡鎮座
          (末社)大川神社

   【現社名】唐崎神社
   【住所】滋賀県高島市マキノ町知内924
       北緯35度27分7秒,東経136度3分21秒
   【祭神】瀬織津比 速開都比 速佐須良比
   【例祭】7月28日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀年代は不詳
       天智天皇の頃には既に鎮座
       川社として、修祓の祭礼が行われていた
       仁寿元年「辛埼」と称す
       享保の頃唐埼神社と号す
       享保8年5月神祇官領より正一位
       明治9年10月村社
       明治41年4月29日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「唐埼神社」と称していた
   【公式HP】 唐崎神社
   【社殿】本殿流造
       手水舎・茶所・社務所・拝殿

   【境内社】川裾宮・大川神社・三宅八幡宮・西近江七福神奉安所
        日吉神社・貴船神社

   【境内図】 境内図

唐崎は大津市の湖岸の唐崎が古来有名であるが、ここはみそぎの場として知られた所である。知内の唐崎神社も湖岸の川口にあり、このような祭儀の場としてふさわしい所で天智の朝既に鎮座あり、当時「大川神社」といい、沿湖の川社として修祓の祭礼を行っていた。
琵琶湖七瀬の祓処の一処。


境内歴史案内

高島郡マキノ町大字知内小字大川924番地
当地は古代、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川が琵琶湖に流れ入り、東に、伊吹山、竹生島をのぞみ、白砂青松の浜に面する清明な自然の神域で、神の鎮座地として、禊の祭祀を行う川社であった。神社の創建は周囲に集落のできるずっと以前、久遠にして不詳ではあるが、天智の朝には既に鎮座し、延喜式内社大川神社は当神社のことであると伝えられている。社号は大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と尊称され、変遷してきているが、「川裾さん」という尊称が最も広くゆきわたり、親しまれている。
川すそまつり 例祭7月28日29日
中古より、毎年旧暦6月晦日に禊祓の祭祀が行われ、これが「夏越の祓」とも呼ばれ、川裾祭のいわれである。御霊徳、祓いを受けに近郷近在をはじめ、延宝からも多くの人々がお参りし、28日の夕方からは沢山の夜店が並び、ゆかた姿も楽しい夏祭りである。大正時代には大湖汽船の蒸気船が参拝客を乗せて知内に寄港し、境内の土俵場では、近郷の強者が集まって奉納相撲が、戦前までは大変盛んであった。
古墳・城跡
神社の北側の小丘は古墳時代(7世紀)の円墳(遺跡名唐崎神社古墳)と言われている。村の人からは庚申塚と呼ばれてきたところである。又、この附近は、北と南に御禊川、殿田川の小川があり、東は湖水に接し、西は沼田に接する要害の地で、安土桃山時代に「知内城」(知内浜城)が築城され、中世、戦国時代の城(砦)の特色である竹藪・堀・土塁のなごりが現存している。
川裾宮 唐崎神社

社頭掲示板



唐崎神社

本社は創立不詳といへども、天智の朝既に鎭座あり、當時「大川神社」と謂ひ、天智の朝沿湖の川社として修祓の祭礼を行はせらる。文徳天皇仁壽元年6月頃より「辛崎」と称し、享保の頃より「唐崎」の社號を称するに至る。享保8年5月神祇官領より正一位の神階を授けられ、明治9年10月村社に列し、明治41年4月29日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

神社明細書



唐崎神社

創立年代は不詳であるが、式内大川神社が当社である。(式内社については現在論社となっている)天智の朝、沿湖七瀬の川社の中の一社と伝えられる当社は、地名から大川明神、祓戸三柱の比賣神奉祀する処から日月星三光明神、大川末流鎮座から川据大明神と社号は変遷してきている。当地天文年中に兵火にかかったが幸に本地の佛像は安全だったので水玄堂に遷し唐崎神社奥の院として祀っている。天文の頃には浅井長政社傍に出張城を設け信仰厚かった。現在の社伝は明治18年の再建に成るが拝殿は文政10年の再建、鳥居は正徳元年木造を石材に換えて建立、延宝6年一橋日後守政幸神鏡奉献、享保8年神祇官より正一位の神階を奉られ、大鳥居神額には冷泉為系伯社名文字奉献、参道口には、湖東・西湖各千人講大籠奉納。明治9年村社に加列、同41年神饌幣帛料供進指定。

滋賀県神社庁



由 緒 略 記

当地は、知内川(旧大川)、生来川、百瀬川の三本の川が、琵琶湖に流れ入り、東に伊吹山、雲仙岳、竹生島をのぞみ、白砂青松の浜に面する風光の清明なる神域で、祓戸の神々の鎮座地として、禊祓の祭祀を行う、古代の川社(かわやしろ)であった。古い神社は、必ずといっていいほど、清流のわきにあり、当社地も先の三本の川の中に、なお、二つの小川(殿田川、ミソギ川)にはさまれて、川につからないと行けない斎庭になっていた。こうした例は、熊野信仰で知られる、熊野本宮大社のかつての社地「大斎原」(おおゆのはら)もそうであり、伊勢の神宮の五十鈴川も、橋がなかった時代は、徒歩で川を渡り、自然に禊をし、身を清めることができるようになっていたのである。
当社の創始は、周囲に集落のできるはるか以前、久遠にして不詳であるが、天智の朝には既に鎮座し、延喜式内社大川神社は当神社のことであると伝えられている。社号は大川明神、三光明神、川裾大明神、唐崎大明神と尊称され、変遷してきているが、「川裾さん」という通称が最も広く親しまれている。川裾信仰の霊地であり、中昔、神仏習合し、明治にはいって分離された。
天文年間(1532〜1555)に当地は兵火にかかり、社傍の大川堂に安置されていた大川神社本地仏は水玄堂に移され無事であったが、古器物は殆どが烏有に帰したと伝えられている。その本地仏は水玄堂の火災(明治26年)により、現在は上知内の安養寺内の観音堂に、唐崎神社奥の院として祀られている。
現在の社殿は明治18年、拝殿は文政10年の再建で、以降、御屋根など数回にわたり大修復されている。正面の鳥居は、正徳元年(1711)木造を石材に換え建立された。また、参道口には、湖東、西湖各千人講奉納(安政年間)による石灯篭があり、湖上交通による参拝も盛んであった。安産、下の病、などの御利益でも知られている。

公式HP



大川神社

大川は於保加波と訓べし○祭神在所等詳ならず
類社
丹後國加佐郡大川神社(名神大)

神社覈録



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