熊野神社
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野神社 近江国 高島郡鎮座

   【現社名】熊野神社
   【住所】滋賀県高島市安曇川町上古賀1391
       北緯35度22分5秒,東経135度58分22秒
   【祭神】伊邪那岐命 伊邪那美命
   【例祭】5月3日 例大祭
   【社格】
   【由緒】創立年月日不詳
       弘仁14年(823)再興
       応仁年間白山宮と称す
       天正年間織田氏の兵火で焼失
       正保3年(1646)9月酒井忠勝社殿屋根葺替寄進
       明治維新の際熊野神社と称する

   【関係氏族】熊野連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「白山宮」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造檜皮葺
       手水舎・拝殿・社務所

   【境内社】神明神社・住吉神社・春日神社・飯綱神社
        天満神社・甲州神社・愛宕神社

   【神宮寺】比叡山延暦寺の隆盛期には、当社境内にも坊があった

熊野神社はもと饗庭野台地上にあつたとされている。
当社はもと饗庭野台地上にあつたことは記されていないが、地形から見て当社が前述の二社とともにこの台地の鎮守神と深い関係にあつたことは推測に難くない。他の二社が最初台地上にあつたのに対し、この社は始めから南麓に奉祀されていたのかもしれない。
弘仁14年に再建されたとの社伝が残る。往古は白山宮と称していたが、明治になり現社号に改められた。明治9年に村社に列した。


足半祭

▽安曇川ではユニークな「足半祭」
 安曇川町の上古賀と下古賀の両地区では、氏子が互いににらめっこをする「足半(あしなか)祭」があった。
 境界争いから解決までの過程を再現した祭りと言われ、かつては先方が頭を下げるまで終日にらみ合いを続けたという。
 両地区の氏子がそれぞれ笠鉾(ほこ)を持ち、祭列を組んで相手方に向かって出発。地区の境界で遭遇すると、さっそく4人ずつがにらみ合いを始めた。観衆から野次が飛ぶなか、今年は下古賀地区が先に頭を下げ、互いに土下座して仲直り。一行は「ゲニモサイ」と声を掛けながら、熊野神社に向かった。

http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2003may/03/W20030503MWD2S000000022.html



熊野神社

創立年月日不詳。弘仁14年再興。延喜式内ノ一社ナリ。応仁度諒部ニ祭り白山宮卜称ス。維新ノ際復旧ニ基キ式内熊野神社ト称ス。
一、當社ハ地方ニ於ケル古社ニシテ、往昔比叡山延暦寺隆昌ノ時、三千坊近江國各地ニ散在セシトキ、境内ニ塚長禅智坊アリテ、今猶五輪ノ塔ノ基石崩レ笠石ノミ青苔附着シテ存ス。境内地ニハ丈余ヲ回ル老松老杉欝蒼トシテ頗ル神威ノ尊嚴ヲ保テリ。当社古文書古器物ハ天正年間織田公ノ兵火ニ罹り焼失セリ。
二、正保3年丙戌9月領主酒井讃岐守忠勝公社殿屋根葺替ヲ寄進セラレタリ。(棟札存置ス)爾來代々ノ藩主崇敬殊ニ篤ク、今尚旧藩主ヨリ毎年氏子ノ義務教育卒業ノ際各自ニ若干の奨學資金ヲ贈與セラル。酒井忠勝年譜并言行ニ記載セラレタル所ニ因ルト左記ノ通り。
三、今年大猷院様御年四十二ノ厄年ニアタラセラレ候。右ニ付キ忠勝様若州又ハ敦賀郡高島郡諸社ヲ御修補ナサレ、相州鎌倉長谷観音堂ヲ改メ造ラレ、大猷院様御惹ナキヤウト御祈願ナリ。其上伊勢両宮日光山大神ヘモ御祈ナサレ候トアリテ、高島郡諸社ノ内ニ當社ヲ含メリ

神社明細書



熊野神社

創祀年代不詳。社伝によれば弘仁14年再興される。延喜式内の一社(現在他2社と論社となっている)であり、応仁度諒部に祭り白山宮と称する。維新の際復旧に基き式内熊野神社と称して、明治9年村社に列せられる。往昔比叡山延暦寺隆昌の時、三千坊近江国各地に散在せし時、境内に塚長禅知坊あって、今猶、五輪塔の基石崩れ笠石のみ青苔付着して存する。当社古文書古器物は、天正年間織田公の兵火に罹りて、悉皆散失している。正保3年領主酒井讃岐守忠勝公社殿屋根の葺替えを寄進される。

滋賀県神社庁



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