阿志都彌神社
あしづみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿志都彌神社 近江国 高島郡鎮座
          (末社)白山神社

   【現社名】阿志都彌神社
   【住所】滋賀県高島市今津町弘川1707-1
       北緯35度24分23秒,東経136度1分33秒
   【祭神】木花咲耶姫命 菅原道真
       本来の祭神は木花咲邪姫命と見るべきであろう。木花咲邪姫命は別名を神吾田鹿葦津姫と称したところから阿志都彌の社名と相通ずるものがある。

   【例祭】4月29日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年月不詳
       長徳四年(998)行過天満宮創建
       天保14年(1843)12月行過天満宮を本社に合祀
       明治9年10月村社
       同14年2月郷社
       昭和11年3月18日神饌幣白供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「行過天満宮」と称していた
   【公式HP】 阿志都彌神社
   【社殿】本殿入母屋造
       手水舎・拝殿

   【境内社】稲荷神社・白山神社
   【境内図】 境内図

阿志都彌神社・行過天満宮と称している。
今津町弘川の地は和名抄の善積郷に含まれると考えられている地である。この「善積」は本来「葦積」であつて「アシツミ」の社名と同じであつた。
行過天満宮は社地もと本社東に在り、長徳4年創建天保14年12月に本社に合祀。
境内社白山神社は今津町北生見にあったもので、式内小海神社に比定されていた。北生見地区が平成4年ごろ自衛隊の演習地となったために当社に移転したという。本殿向かって左手にあり


由緒

・当宮は神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命を勧請して阿志都弥(あしつひめ)大明神と称したことに始まり、延喜式内の名社で国弊社として祀られ上野山大社、櫻花大明神とも称されています。日本書紀によりますと木花咲耶姫命(葦津姫命)が、天甜酒を醸された御事蹟が登載され、又、推古天皇30年に新羅征伐副将軍の近江脚身臣が当地に住んで崇敬したお社であります。
御神徳の高い願望成就の神様として広く信仰を集めています。
・天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶7年に加賀国(石川県)の国守に任命せられて、御赴任の途中に本社「阿志都弥大明神」に御参詣になって、御詠吟などせられて過ぎ行かれた由縁によって、公の御曾孫菅原大輔正朝臣が行過天満大神と称して、長徳4年8月5日に勧請建立になったのであります。尓來善積郷の総社として上野山大社、上野山天満宮、桜花大明神とも称されています。
」 建久2年3月15日に海津村神尾山(海津天神社)へ当宮各社の御分霊に道真公直筆の十六禅神、法華経等を添えて分社として遷宮したと伝えてられています。慶応2年4月5日神祇道菅領ト部朝臣良義より善積惣社号の神宜を受けました。学問芸術、厄除健康等神威顕著な神様として崇敬されています。
脇神 福禄寿天様は七福神の一つで、福徳、禄徳、寿徳を備えた霊験あらたかな方でありまして「七福神めぐり」に各地より参詣があります。
・当宮は古来より善積郷八部落神社の総社として全部落の住民を崇敬者とし毎年四月の例大祭には各部落より出動した人によって神輿を担いで御旅所の住吉神社で祭典をして南浜まで渡御をしましたが、現在は弘川、宮西、中野の氏子によって担いでいます。
倭名類聚妙に登載された当郷社附属の八部落各神社は、白山神社(南生見)、熊野神社(蘭生)、白山・降宮神社(上弘部)、日吉神社(下弘部)、八雲神社(大供)、日枝・大水別神社(南浜)、住吉神社(中浜)、小海・大浜神社(南新保)であります。
皇室との御関係については天智天皇が志賀に都をお定めになられた以後、毎年当地産物の烏瓜の根を献上し又、刈安と言う草を、天皇御衣の黄色染料の原料として奉納していましたが、戦乱が続いたので廃絶しましたが、毎年四月の例大祭には必ず烏瓜の根を献じています。又御宝祚永世御祈祷の命を奉しましたので、以来毎年九月に当宮の御神璽に生栗一籠(約二升)を添えて献上しておりましたので、天皇の御撫物を当宮に御神納になり、毎年九月に新旧御取替になりました。その時金二両の御下賜があり、当宮の神璽を献上しておりましたが、明治40年命達により廃止になりました。
武家の崇敬については足利三代将軍義満より朱印地(神田七町歩)を寄せられたが、後織田信長の兄の子信澄が没収しました、憎むべきことであります。文禄2年以来毎年金沢城主前田家代々参詣になり、大祭には幣帛両(白銀五枚)の奉納がありました。元治元年松平筑前守慶寧が参詣以来毎年藩主が、又慶応元年大聖寺藩主松平飛騨守鬯侯の参詣以来毎年藩主が必ず参詣して幣帛料を奉納しました。
文久2年10月大溝藩主分部若狭守光貞侯の参詣以来毎年大溝藩主の参詣がありました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



阿志都弥神社

当宮は神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命(あしつひめみこと)を勧請して阿志都弥(あしつひめ)大明神と称した事に始まり、延喜式内の名社で国幣社として祀られ上野山大社、櫻花大明神とも称されています。 日本書紀によりますと木花咲那姫命(葦津姫命)が、天甜酒(あまのたむけざけ)を醸された御事跡が登載され、又推古天皇30年に新羅征伐副将軍の近江脚身臣(おうみあしずみのおみ)が当地に住んで崇拝したお社であります。
行過天満宮
天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶7年に加賀国(石川県)の国守に任命せられて、御赴任の途中に本社「阿志都弥大明神」に御参詣になって、御詠吟などせられて過ぎ行かれた由縁(いわれ)によって、公の御曾孫菅原輔正朝臣が行過天満大神と称して、長徳4年8月5日に勧請建立になったのであります。尓來善積郷の総社として上野山大社、上野山天満宮、桜花大明神とも称されています。
建久2年3月15日に海津村上尾山(海津天神社)へ当宮各社の御分霊に菅原道真公直筆の十六禅神、法華経等を添えて分社として遷宮したと伝えられています。慶応2年4月5日神祇道管領卜部朝臣良義より善積惣社号の神宜を受けました。学問芸術、厄除健康等神威顕著な神様として崇敬されています。
脇神
福禄寿天様は七福神の一つで、福徳、禄徳、寿徳を備えた霊験あらたかな方でありまして「七福神めぐり」に各地より参詣があります。
当宮は古来より善積郷八部落神社の総社として全部落の住民を崇敬者とし毎年四月の例大祭には各部落より出動した人によって神輿を担いで御旅所の住吉神社で祭典をして南浜まで渡御をしましたが、現在は弘川、宮西、中野の氏子によって担いでいます。
倭名類聚抄(わみょうるいじょしょう)に登載された当郷社付属の八部落各神社は、白山神社(南生見)、熊野神社(藺生)、白山・降宮神社(上弘部)、日吉神社(下弘部)、八雲神社(大供)、日枝・大水別神社(南浜)、住吉神社(中浜)、小梅・大浜神社(南新保)であります。
皇室との御関係については天智天皇が志賀に都をお定めになられた以後、毎年当地産物の烏瓜の根を献上し又、刈安(かりやす)と言う草を、天皇御衣の黄色染料の原料として奉納していました。が、戦乱が続いたので廃絶しました。しかし、毎年4月の例大祭には必ず烏瓜の根を献じています。又御宝祚永世御祈祷の命を奉じましたので、以来毎年9月に当宮の御神璽に生栗一篭(約二升)を添えて献上しておりましたので、天皇の御撫物を当宮に御神納になり、毎年9月に新旧御取替になりました。その時金弐両の御下賜があり、当宮の神璽を献上しておりましたが、明治4年命達により廃止になりました。

公式HP



阿志都彌神社

阿志都彌は假字也○祭神在所等詳ならず、恐らくは今の善積庄内にあらんか、尋べし、(荻野伯耆紀光陶云う、弘川村大鍬社なるべし、)
日本紀天武天皇巻、逝江脚身臣飯蓋、〇和名鈔(郷名部)善積〇伴信友云、按、今も善積庄あり、葦を葭と云かへたる例にて悪に通ふ事を忌て、唱へかヘたるなるべし

神社覈録



郷社 阿志都彌神社

祭神 神吾田鹿葦津姫命 菅原道眞
一説祭神葦原醜男神と(社傳)あるは、蓋し阿志といふに附会せるならん、一書に曰く「土俗の古伝に木花開耶姫命、故に花を賞して三月を例祭とすといへるは拠あり、社郷阿志都彌はアシツメにて女神を一書に神吾田鹿葦津姫ともある、葦津姫といふ事は、士俗のかけても思ひよるべき事ならぬを、口碑に木花開那姫といひ、又社號と書紀の一説とに合せて、実に土俗の伝説の正しき事を知るべし」と、創祀年代詳ならず、旧阿志都彌神杜と称し、清和天皇貞観15年菅原道真越前國司赴任の時、法華経心経及び阿彌陀経を手写して納められし事あリ(社記)といへば、其古社たること知るに難からず、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、円融天皇長徳4年8月5日、式部大輔菅原輔正、道真を合祀して行過天満宮と称す、後島羽天皇建久2年3月15日、当郡海津村に、当両社及末社三神の分霊と、菅公真筆の法華経とを遷す、正親町天皇文禄2年以来地金澤藩領となり、前田氏の崇敬特に深し、孝明天皇文久2年、中納言齊黍、筑前守慶寧、宰相利嗣、大聖寺藩前田利琶、大溝藩分部若狭守光貞等社参して幣を献ず、慶応2年12月、孝明天皇痘瘡の祈を承り神霊を献す、3年勅を以て今上天皇御聖壽を祈る、明治9年10月村社に列し、13年郷社に定まる、境内1299坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿其他神餞所、井戸屋形、嗽水舎等あり、一書に当社を説きて曰く、「今按ずるに、阿志都彌神社は川島村加茂大明神といふ説もあれと、証とすべきものなし、当弘川村は倭名抄にのする善積郷にて、郷に醸る村々は弘川。上弘部、下弘部、簡生、南生見。大供、今津、新保八村あり、此の八村の総郷社なり、郷名はもと社名と同じく葦積なりしを、善積と改めしなれども、社號は古の如く改称せすと云る土人の設証とすべし」と。

明治神社誌料



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