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天川命神社があったところに中世北野天満宮が勧請され、その後衰退したため、天満宮のみが残ったものと思われる。 |
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北野神社 伝えるところによると村上天皇の御孫為平親王は安和の変により都を逃れ村上播磨守と名乗られて諸国巡歴され天禄3年当地に安住され農耕の業に従事された。播磨守は、桓に菅原道真公を敬慕し、尊崇厚く天正元年坂口村菅山寺の守護神である天満宮の御分霊を勧請し、山麓に一宇を建て奉祀した。後社殿を村の中央今の社殿の地に奉遷した。正安3年の文書によれば当時菅公を偲びて、梅桜等を植栽し、以来「文室桜」と称し、満開の日神慮をお慰めする花見祭を奉仕し近卿より観客が多かった。古来、「ひざ折り神事」と称する祭儀あり。正月8日に7人衆と呼ぶ諸頭(もろと)で5斗の鏡餅を供え、又古禁裡の御用を勤め烏帽子、直垂にて、神主は、同じくそれに袴(祠官の着用を許されたという)で永正15年以後は、脇衆と称するもの加わり奉仕したが明治以降氏子一同に変った。今尚50年毎に大祭がとり行われその古記録がある。村上播磨守の直流が当社の祀職となり明治4年村口と改称した。天満宮と称して来たが、北野神社と改称し、明治9年村社に加列し、同41年神饌幣帛料供進神社に指定された。 滋賀県神社庁 |