太古天川命と与登魂命此地に天降り、その神孫の伊香津臣命、梨迩臣命、荒原を開拓して人民繁殖して本村をなしたという。 平安時代の初めに天川命の御祖先神及び御子孫等五十八座を併祀し、五十八座の御社と称した。 正慶2年(1333)、六波羅滅亡の時、光嚴天皇他二皇子等、坂田郡番場より逃れ、本社の神殿に難をさけられた。 |
天川命神社 太古天川命 与登魂命の又の御名 (『注近江伊香郡志』には津速産霊神又の御名とある)此地に天降り、その神孫の伊香津臣命、梨迩臣命、荒原を開拓して人民繁殖して本村をなしたといい、祖神が天降つた地であることから天降りの里と称した。その後雨森の文字を用いるようになつた。平安時代の初めに天川命ノ御祖先神及び御子孫等五十八座を併祀し、五十八座の御社と称するようになり、中臣藤原両氏の御租神総社として春秋ノ祭祀など隆盛であつた。正慶2年(1333)、六波羅滅亡の時、光嚴天皇他二皇子等、坂田郡番場より逃れ、本社の神殿に難をさけられたという由緒から相殿に天皇と二皇子を祀るようになり、ここに王三座の御社とも称した。明治18年5月30日天川命神社と社號復旧改称の允許を受けた。 滋賀縣伊香郡志要旨 |
天川命神社 社伝によれば、御祭神光厳天皇は、後世に到り追祀されたものであるが、その当初より御鎮座ありたる建速産霊神は、又の御名を天川命と称し世々相承け清麻呂卿に至るまで58柱を奉斎する。大古「天川命」此の地に天降らせ給ひ、その神孫本村を開拓し給ひしを以って、当地を天降里と称せしを後世に到り現在の雨森と改称せしと伝う。 滋賀県神社庁 |
天川命神社 当神社ハ祭神五十八柱ヲ奉斎シ、天川命神社ト称ス。 建速産霊神(の)父ノ御名天川命ヨリ世々相承ケ清麻呂二至ル五十八代にして社中興登魂命ハ乃チ中臣藤原二氏の祖神。また伊香津臣命ハ乃チ本郡創始の神ナリ。 太古天川命此地二天降ラセ給ヒ、其神孫伊香津臣命・梨跡臣命、荒原ヲ開拓シ、人民繁栄シテ本村を為ス。祖神天降リノ地ナルラ以テ、天降里ト称セシヲ後世雨森ト改称スルニ至ル。 往昔ヨリ伊香郡ノ総社トシテ神徳弥高ク遠近ノ尊崇ラ集メ祭祀隆盛ラ極メ由緒深淵ナリ。 正慶2年5月、足利高氏六波羅ラ破レルニ因リ光厳天皇二皇子ト共二内大臣正親町公秀以下ノ公卿御陪従ニテ当地に落チ給ヒシヲ当地ノ民当社ノ神殿ラ仮行在所トシテ迎エ、御難ヲ避サセ奉ル。 是ヲ以テー帝二皇子ノ像を彫刻シ、御相殿二奉安シ、本社ヲ王三座ノ御社ト称ス。 公秀居住セシ社前の地名ヲ中納言屋敷卜謂ウ。因二云。讃岐国鵜足郡造田村鎮座天川神社ハ国史現在ノ旧社ナレ共、本社ノ御分類ト云伝フ。 例祭4月13日 境内 八幡神社、祭神応神天皇 社頭石碑 |
天川命神社 天川は阿米加波と訓べし○祭神明らか也○在所詳ならず 神社覈録 |