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本殿はもとは現在の拝殿の位置にあり、明治17年に現在の場所に移築された。 |
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由緒 天照大御神の御旨のまにまに、神籬の神勅、天壌の神勅を相議りて御授けになり、すべて生命ある万有を生成化育することを御導きになりました。また、むすび(産霊)の御霊力を祟びまつり、背後の山を産霊山と申し、あまつかみ(天神)と申し上げた。つぎに、国造本紀に「淡海の国造は日子坐王命」とあり、姓民録には「開化天皇第三王子彦坐王命」とあり、丹波国より淡海国造となられ余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神としてあまねく祟敬せらる。 今に尚五ケ郷の一宮的存在であるのも故あることなり。住昔、神功皇后敦賀街道御通行の御時、武内宿禰御参詣奉尊され、それよりますます北国街道御通過の折には官民祈願多くなれり。又今から千余年前、村上天皇天暦元年御神威御真徳のあやかり、浦安の国(郷)でありますよう菅原道真公を奉齊することになって、「天満天神」とよび祟拝されるようになれり。明治3年5月、旧領主飯野藩の命で昔の通り「草岡神社」とよぶようになり今市(村)に遥拝地として弐畝拾七歩賜わる。明治9年(1876年)10月村社、同17年(1908年)4月29日郷社、並幣帛供進社として指定される。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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天神山 草岡神社裏山が天神山。道を挟んで東側が茶臼山で共に賎ヶ岳合戦当時秀吉が山路正国らに命じ砦を築かせたが、 目前の行市山に佐久間盛政が陣を築いたので堂木山の線まで退いた。 社頭掲示板 |
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草岡神社 社格式内創立年月日不詳往昔余郷庄上の郷の大社也神功皇后敦賀街道御通行の御時武内宿禰御参拝被成候事あり其後益々繁榮に奉尊し于時天正11年の頃賎ケ嶽の兵焚に罹り世治を再興す且元の如くすること能はず古時此れを上の郷片岡村と云ふ何れの頃か片岡天神と奉称せり然るに明治3年5月旧領主上総國飯野藩社格御改めあつて往昔の如く草岡神社とす則ち許可書明治3年5月 神社由緒記 |
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草岡神社 往昔当地方は荒野多く、枯茅蓬々として狐狸幽禽の棲息する荒寥の地であった。僅かに住む農民が山麓に1祠堂を建立し、高皇産霊神、神皇霊神を勧請し奉斎した。その時山を「ムスビ山」と唱え、草岡天神と奉称した。第9代開化天皇の第3皇子、彦坐王当地に降臨し給い、余呉の庄の開発並びに郷民を愛撫し、産殖に治水事業に努められた。余呉の庄とは、合併前の片岡、余呉の地域を上の郷、中の郷、下の郷と分括されて上の郷片岡天神とよんでいた。御在世中に御子にあたる崇神天応が行幸されている。故実に彦坐王命国安姫命を入輿し給い、その皇子廉彦王命は池原姫を娶り給い、その又皇子、彦理王命は夜叉池村より伊加津女命を入輿し給いしとあり、この間300年以上で草岡郷の太租なり。彦坐王命薨後は恩鴻後は恩鴻を敬慕し、本社に霊を祀る。下余呉地先に鳥居ありて遠方より遙拝するためであった。仲哀天皇角鹿(今の敦賀)浦に行幸の砌、当社に参拝さられ、この時の武内宿弥言上し、北国街道の当社正面にあたる所、今の今市郷に三畝歩の地を賜り、一般通行人の遙拝所と定め、木造の鳥居を建立された。ところがこの鳥居古びて寛成8年石の鳥居に改造さえている。京都北野天満宮に菅公が祀られるや、当社天暦10年勧請し相殿に御鎮座申上げる。旧金沢藩主前田利家公は、菅公の末裔なるをもって、北国街道進行の砌は必らず参拝し、神饌料を供えられたという。時移りて社名の呼び方も変っていったが、明治3年旧領主上総国飯野藩士校格を改査し、従来の称号通り「草岡神社」と命名された天正11年賤岳の兵火で社殿宝物等を焼失する。明治9年村社となり明治17年郷社に昇格する。式内伊香郡46座の1。 滋賀県神社庁 |
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草岡神社 草岡は久佐乎加と訓べし○祭神在所等詳ならず 類社 (欠く) 神社覈録 |
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郷社草岡神社 祭神 高皇産霊神 神皇産霊神 彦坐命 菅原道眞 本社は、又片岡天神とも称せられ、其の創始は明かならざれども、口碑には、昔時神功皇后敦賀へ行啓の途次、武内宿禰等を從へて参拝せられしことありと傭伝。然らばその最も古社たるを知るべし、降つて醍醐天皇延喜の制に小社に列せられ、爾後諸豪族の崇敬も篤かりき、其は慶長年中に倒れし下郷村大鳥居にても知らるるなり、斯く盛なりし社も、正親町天皇の天正11年賤ヶ岳の役に罹りしより、俄に衰へ、爾来全く旧の如くなる能はず、明治9年10月村社に列し、次いで17年4月郷社に昇格せらる、社地国安は余吾の湖北約20町の高地に位し、山中松柏科の樹多く、四時鬱蒼たり、境内総て1294坪(民有地第二種)を有し、本殿・拝殿、社務所、嗽水舎などあり。因に云ふ、神社覈録、神祇志料何れも草岡神社の所在を明示せす、猶考ふべし。 明治神社誌資料 |