天武天皇の時代に丹生真人が丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の清水を供えて天津神を祭り、天平宝字年間(757−65年)に社殿を現在地に創建したと云う。 |
丹生神社 祭神 丹生都比売命 稲津波能売命 延喜式神名帳近江國伊香郡四十六座ノ内 丹生神社二座トアルハ当社ナリ 創祀年代ハ事遠クシテ 詳知難ク 社伝ニ依レバ人皇四十代天武天皇ノ御宇丹生真人 此ノ地ヲ拓キシ時丹保山ニ神籬ヲ 設ケ山土ト丹生川ノ清水トヲ供シ 天津神ヲ祭リ 天平寶宇年間ニ至リ社殿ヲ今ノ所ニ創建シ 以来丹生郷ノ総社トシテ郷民ノ崇敬スル所古文書ニ 丹生大明神天神白山両宮又上丹生天神白山ト記シアル天神白山両宮ハ 即チ 延喜式神名帳ノ丹生神社二座ガ両宮トナリシモノニシテ大永五年夏雷火ノ為社殿焼失シ 翌年六月再建立ス現在ノ社殿寛文年間ニ社造ヲ壹宇建造セラレタルモノナリ 社頭掲示板 |
茶わん祭りのあらまし 滋賀県選択無形民俗文化財 茶わん祭りは、そのむかし余呉町上丹生の末遠に陶器を創る工人がいて、その技を神から授けられた報恩感謝のため、毎年陶器を奉納したのが始まりだといわれています。昭和36年4月26日、滋賀県選択無形民俗文化財として指定されました。 また、巡行では丹生神社から八幡神社までの神輿の渡御に続いて永宝山、壽保山、丹保山の三基の山車が祭ばやしも賑やかに曳行されます。この三基の山車は素朴な木製の曳山で、足利時代から伝わる曳幕と江戸時代から残る綴錦の見送りをつけ 2ケ月前から身を清めた山作り(工匠)たちが丹精を込めて作り上げます。これらの作品は、歌舞伎や物語から芸題を取り、その場面を人形と陶器でうまく組み合わせ高さ10メートルに積み上げられますが、その積み上げられた時の華麗さと絶妙なバランスに観衆はどよめきます。この場面が「湖国の奇祭」と言われる所でもあります。 祭ばやしも、丹生独特の曳山ばやし祇園囃子、新車ばやし、神楽ばやしのほか、笛、太鼓、鉦など軽快なリズムは郷土色豊なものです。 渡御道中は、厳かな中にも華やかに、長刀振りを先頭に、12の役、笛、棒振り、小太鼓、鼓、鉦、ささらすり、大太鼓と続き、さながら足利時代の絵巻を再現したような豪華さと言えます。 http://www.biwa.ne.jp/~azai/aindex.htm |
丹生神社 延喜式神明帳伊香郡46座の内丹生神社2座とある、天武天皇の御宇丹生真人此地を領せし時丹保野山に神籠を設け山土と丹生川の水を奉じ天津神を勧請し祀る、天平宝字8年春今の所に社殿を創建すと社伝に記す。大永6年より享禄3年に至る。再建陳上奉祀加帳あり社運隆盛に伴い寛文3年今の社殿を建立今日に至る。当社の神宮寺を中林寺と称す寺伝に承和2年僧恵寛の建つる所とし明治維新新神仏分離の際迄社僧本社の祭祀法会を掌れり。当社が所蔵する古文書の内、大般若経600巻の第290に奥書あり、右経巻安置者藤原国末云々丹生御宝前所奉納云々永仁4年国末敬白とあり第283巻に近江国伊香郡余呉庄丹生郷頭主藤原国末為後世菩提幻奉迎せとあり、地方豪族と推定される。武将佐々木家の崇敬厚く太刀一振田四反を貞和3年、土屋相模守寿直より鳥目千疋寄進状あり。延喜式内(未定)社、旧村社明治41年幣帛供進指定社となる。 滋賀県神社庁 |
丹生神社 由緒 主祭神 高おかみ神 丹生津姫命 境内杜 稲荷神社 蛭子神社 境外社 神楽野明神 例祭日 4月3日 創建 天平宝字8年(764)春 当社は往古より水を司る神として重んじられ霊験あらたかな社として他郷からも崇敬をうけている。 延元元年10月(1336)新田義貞官軍を率いて北陸を巡りし時当社に参詣し郷民は奔走してこれを縞ている 社頭掲示板 |