黒田神社
くろだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】黒田神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】黒田神社
   【住所】滋賀県長浜市木之本町黒田1697
       北緯35度30分51秒,東経136度12分50秒
   【祭神】大己貴命 黒田大連
   【例祭】4月17日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】欽明天皇の御宇(540年)の創始
       永久元年社頭炎上
       承久の乱(1221)で社殿焼失
       元亀の頃(1560)焼失
       天正11(1576)賊ケ岳の戦火で焼失
       明治9年10月旧蹟小字森崎に再建
       明治9年10月同村社

   【関係氏族】黒田大連
   【鎮座地】当初鎮座の地と思われる
        天正11(1576)賊ケ岳の戦火で焼失、大沢神社に合祀
        明治9年10月旧蹟小字森崎に再建

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社流造檜皮葺
       太鼓橋・社務所・拝殿

   【境内社】稲荷神社・澤渡神社・穴師神社

黒田の集落の北を流れる余呉川の北岸、森崎山の麓に南して鎭座する。
この神社の背後の山、森崎山の山頂付近に円墳六基からなる黒田古墳群があり、その祭祀を神社の発生と関連づけてもよいであろう。
天正11(1576)賊ケ岳の戦火で焼失し、神体を大沢神社の内陣に納め久しく合祀する。
明治9年10月旧蹟小字森崎に再建する。
この地は筑前・福岡52万石・黒田氏の発祥の地といわれている。


由緒

当社は欽明天皇の御宇(540年)の創始と伝えられる。
和銅年間(710年)黒田士大連此地に繁栄し郷名を黒田郷と称しその一族奉祀に係り森崎黒田大名神とあがめ黒田五郷の総社で延喜の制定されるや国幣の小社に列せられた名社である。
 当社は住昔しばしば兵燹に羅り承久の乱(1221年)で社殿焼失し続いて元亀の頃(1560年)股しても兵乱の為降つて天正11年(1576年)賊ケ岳の戦火で余燼は神殿社宝をも鳥有に帰し再建の事ならず隣郷の大澤神社に合祀奉斎されてきたが明治9年氏子の念願稔り元の社地に再建遷座された。
かつて近江源氏と称した佐々木源三秀義公の後胤黒田左衛門慰太夫伴官源宗清公当地を領し姓を地名よりとつて黒田氏と称し七世に及びその間当神社を氏神として崇敬篤く献進が寄せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



黒田神社由緒

主祭神 大己貴命
配祀神 黒田大連
当社は欽明天皇の御宇(540)の創始と伝えられる。和銅年間(710)黒田大連此の地に繁栄し、郷名を黒田郷と称し、その一族の奉祀に係り、森崎黒田大明神とあがめ、黒田五郷の総社で延喜の制定されるや国幣の小社に列せられた名社である。
当社は住昔しばしば兵火に羅り承久の乱(1221)で社殿焼失し、続いて元亀の頃(1560)またしても兵乱のため、降つて天正11年(1576)賊ケ岳の戦火で余燼は神殿社宝をも鳥有に帰し再建の事ならず、隣郷の大澤神社に合祀奉斎されてきたが、明治9年氏子の永年の念願稔り元の社地に再建遷座された。かつて近江源氏と称した佐々木源三秀義公の後胤黒田左衛門尉大夫伴官源宗清公当地を領し、姓を地名よりとつて黒田氏と称し七世に及び間当神社を氏神として崇敬篤く献進が寄せられた。
例大祭 4月17日
特殊祭儀おこない 2月17日
六組の塔主によって厳修される

社頭掲石碑



黒田神社

当社は欽明天皇御宇の創始という。和銅年中黒田の大連この地に繁栄し郷名を黒田郷と称した。当社はその一族の奉祀にかかり延喜の制国幣の小社に列せられた古社で、森崎黒田大明神と称し黒田五部落の総社であった。東北に黒田山城跡あり黒田左近高政公の城跡という。弘安年間京六波羅敗亡の砌かって近江源氏と称した佐佐木氏の後裔左衛尉源宗清公当地を領し姓を地名に採って黒田氏と称し代々当社を崇敬し、豊臣秀吉の側臣参謀を勤めた黒田孝高もこの地で育ち又明治期に首相の印緩を帯びた黒田清隆公、候爵黒田長成氏などその直径である。承久の乱によって社殿炎上し元亀の頃兵乱にかかり、続いて天正11年賤ヶ岳の戦火のため再建ならず同郷の大沢神社に合祀され来たが、明治9年現在の社地に再建仝年村社に列せられ、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。

滋賀県神社庁



碑文

宗清  黒田四郎 一諱宗満
弘安二年巳酉誕生従五位下任左衛門尉大夫判官住千近江國伊香郡黒田邑因稱黒田氏是黒田氏之元祖也
延文二年丁酉逝享年七十九
法名 道法
    昭和四十九年
          従三位 黒田長禮

社頭石碑



黒田家御廟所

筑前国 福岡藩主黒田氏と近江国 伊香郡黒田村
筑前国福岡藩主黒田氏の始祖は、当地の御廟に祀られている「源宗清(宗治とも)」で、ここ黒田に館を構え、この地方を統治し、姓も地名から黒田判官と称した、(福岡藩編纂 貝原益軒著「黒田家譜」より)
この周辺は、当時の屋敷跡で、「構屋敷」と呼ばれ公共の使用以外は遠慮したと今に伝え、旧縁の地として昭和2年(1927)石碑が建立された。 さらに、昭和48年(1973)集会所改築時に「源宗清」名の刻まれた石塔が見つかり、これにより黒田氏始祖の地と確定され、碑文にも明記された。
黒田家では、ここに覆屋を作り、出土した石塔を納めて祀り、御廟所として翌年竣工した。
乙の初代宗清より六代の高政まで約二百年間、黒田氏は当地に在住していたが、永正8年(1511)山城国(現京都府)船岡山の戦いに参戦したが軍命違反で、厳しく咎められ当地を去った。
その後、備前国邑久郡福岡に定住し、ここで七代重隆に跡継ぎが誕生、職隆(八代)と名乗り、播磨国(現兵庫県)の御着城主小寺氏に仕え、姓も小寺と改め、姫路城主となった。
天文15年(1554)ここで九代孝高(通称黒田官兵衛)が生まれ、長じて羽柴秀吉の軍師として活躍して名をはせた。
また、孝高の嫡男一〇代長政は、慶長5年(1600)関ク原の戦いで東軍勝利に貢献し、徳川幕府から筑前国五十二万三午石を拝領、これを礎に黒田氏は、それ以降、明治維新まで約二百六十年間続く大名家となつた。
平成25年(2013)記

社頭掲示板



黒田神社

黒田は久呂多と訓べし○祭神在所等詳ならず
考証、在黒田村と云り、與地志、此村に神社なし、
類社

神社覈録



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