意富夫良神社
おおふらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】意富夫良神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】意富夫良神社
   【住所】滋賀県長浜市木之本町木之本488
       北緯35度30分30秒,東経136度13分35秒
   【祭神】建速須佐之男命
       (合祀)大穴牟遅神 猿田彦大神 八意思兼神 (配祀)梨迹臣命

   【例祭】4月2日 春季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】白鳳4(676)創建
       寿永2年(1182)5月木曽義仲当社に祈願
       応安6年(1373)12月井口弾正源正大般若経を寄進
       天正年真織田信長小谷城攻略の時社殿焼失
       天正11年(1583)賤ヶ獄の合戦に再び兵火に遭遇
       慶長6年(1601)豊臣秀頼再建
       延宝4年(1676)井伊玄蕃頭奉拝
       明治6年意富布良神社と改称
       明治10年村社
       明治18年3月17日郷社
       明治41年4月29日神饌幣帛料供進指定
       大正14年県社

   【関係氏族】大村直
   【鎮座地】往時大洞山に鎭座という
        戦国時代兵火により現在の地に

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「王布良天王」「田神天王」「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・祝詞屋・社務所・手水舎・中門

   【境内社】天満宮・神明社・稲荷神社
   【神宮寺】境内地に隣接して、時宗、田神山観音寺がある

山裾の大社。至る道は狭い。
草創は飛鳥時代とされる。裏山の大洞山は古来霊峰として神域であり、山腹に神前神社「猿田彦命」、乃彌神社「八意思兼神」、蟻通神社「大穴持遅命」の三社があった。麓に里宮があった。これらは天武天皇の時代、白鳳四(676)年の鎮座と伝わる。


意富夫良神社由緒

御祭神 建速須佐之男命
合祀神 大穴牟遅命 猿田彦命
    八意思兼神 梨迩臣命
当社の草創は飛鳥時代と言われ、往時は近江国四祓所の一社として大社であつた。裏山の大洞山は古来霊峰として神域視され、山麓一帯は里宮と呼ばれていた。山腹にも三社があり共に天武天皇の御代、白鳳4年(676)の鎮座と伝えられている。麓の宮は王布艮天王社或は天王宮といひ、奈良時代には神宮寺とも称された。
祭神は牛頭天王又は田上天王とも申し、梨迹臣命と合せて、当地開拓の祖神として崇められ、延喜式内社であった。かつては田部地先の北国往還路に一の鳥居があり、旅人が乗馬のまま通るとよく落馬したという伝えがある。寿永2年(1182)5月、木曽義仲が上洛の途次、当社に祈願した、その時兜を置いた石を「兜石」と各付け、現存している。観応2年(1351)8月足利氏八相山合戦の時、将軍桃井若狭守直常が上の宮に加護を祈つた。また豪族井口弾正源正は当社を厚く崇敬し応安6年(1373)12月大般若経を寄進した。元禄10年(1697)の記録によると山の三社を神前神社猿田彦命、乃弥神社八意思兼神、蟻通神社大穴牟遅命と申していた。天正年真織田信長小谷城攻略の時田上城をも攻め、城主朝倉義景敗北し、同時に社殿は焼失してしまった。幸い、御神像は御安泰で麓の天王宮に合祀された。天正11年(1583)賤ヶ獄の合戦に再び兵火に遭遇したが、慶長6年(1601)豊臣秀頼が再建、延宝4年(1676)には井伊玄蕃頭が奉拝している。明治6年意冨布良神社と改め、明治18年郷社に列し、大正14年県社に昇格した。御神像は、大正10年国の美術鑑定により延喜時代のものであるという鑑査状を受けている。摂社として豊栄神社、神明宮、末社に天満宮、稲荷社、境内地外に秋葉神社、五社宮、金比羅宮が鎮座される。例祭4月2日

社頭石碑



意冨布良神社

当社の草創は、飛鳥白鳳期にして、大洞山の霊峰を、背にし、天武天皇白鳳4年現在地に祀られる。延喜式制定の時神名帳に、大社なりしが、姉川合戦賤獄合戦に文献等殆んど焼失する。考証するところ隣の田部村、村内の往還道路に鳥居ありて、旅人馬乗して通る時は、必らず落馬したと伝えられている。こうした崇りのため恐れて、取除き大洞山で煙埋したと、今に伝えられている。慶長7年8月、小堀新助が奉行となり、当社を、検地した時、当社周辺を「おほふら」と呼び「王布良」と記している。こうした所から古の神社名を「王布良天王社」とも呼ばれていた。寿永2年5月木曽義仲北国より京へ、出軍の時祈願した其の時兜を置いた石「兜石」が今尚残っている。観応3年8月足利将軍八相山合戦の時、陣を取り加護を祈ったという。当地は、室町時代以降枢要の地にして、武門武将の往来繁く、湖北の将佐々木、又京極に属せし武将井口弾正正氏厚く当社を尊敬し大般若経を寄進されている。応安6年僧寛順願主井口弾正源正氏と銘記あり。足利時代以降地方武家の尊崇も厚く国守京極宗意入道は、上京中江北敗軍の時甲冑を解き当明神に納め開運を祈り飯浦越にて発れ後開運ありて再び参詣し、太刀一振を報賽したが、元亀天正の兵禍のため何れも焼せり。元禄10年の記録によれば当山の中腹に、神前神社(猿田彦命)乃禰神社(八意思兼神)蟻通神社(大穴牟運神)の3社があり総称して「神宮」「上の宮」と呼んでいた。延喜式神名下に列挙されている。天正の頃朝倉義景此処に陣を構え「田神城」と、いっていてが織田信長に攻落され其の時三社も兵火にあったが御神像は、安泰で今の社に合祀した。今相殿に鎮座されている。大正10年延喜時代の様式であると、美術鑑査状をうけている。明治初年王布良天王とよび明治6年意冨布良神社と改称した。明治18年郷社に大正14年県社に昇格、この記念に社務所が大改築された。

社頭掲示板



意富布良神社

意富布良は、假宇也○祭神在所等詳ならず
考証、木之本村と云り、與地志、此村に井口大明神あり、考証、此社をさしたるか、

社頭掲示板



郷社 意富布良神社

祭神 素戔鳴命 本社は創建年代詳かならざれども、往時大洞山に鎮座あり、当時頗る宏大なるものにして、其の鳥居は社の東南半里に当る田部村にあり、伝へ云ふ、此の処を馬上にて過ぐる時は必ず落馬すと、故に大洞山に遷せり、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、後戦国の世に及び、度々兵焚に罹りしかば、大洞山の西南、現今の地に奉遷せり、明冶10年村社に列し、次いで18年郷杜に昇格あり、社地は、木之本村の北部大洞山麓に位し、松杉鬱蒼として、閑雅幽邃、自然の神域たり、境内1701坪(民有地第二種)を有し、今は只本殿、拝殿あるのみ、一書に曰く「今按するに神名帳考証に木本村と云ひ、滋賀縣注進状に馬上村十善寺社字大洞山に小からざる祠あり、士屋相摸守社寺帳神亀5年建立とありて頗る旧社なりと雖も、式杜とする事覚束なし、其の實境を考ふるに、木本村ならんと見え、由緒書に古へ田部村往還に鳥居あり、行旅の人馬にて通行する時は落馬する如きの類、種々の神崇あるを以て、大洞山に遷し奉るといふ等縁故ありて聞ゆ、故に今之に從ふ」と。

明治神社誌料



意富布良神社

意富布良は、假字也○祭神在所等詳ならず
考証、木之本村と云り、與地志、此村に井口大明神あり、考証、此社をざしたるか

神社覈録



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