現在地の南の小川を玉作川ということから、この地は玉作神社の地であった。 現在千田の集落の南に小字「石作」が残りかつての石作神社の旧地とされる小丘がある。 文明3年(1471)兵火で石作神社は焼亡し、後玉作神社と合祀した。同年氏神の八幡を相殿に祀った。 |
石作玉作神社 遠い昔、この地に石作連玉作連という技術集団が住んでいた石作玉作神社はそれぞれその祖先をお祭りし延喜式神名帳にその名を列している。 即ち石作連は天忍穂耳尊の御子天火明命6世の孫建真利根命より出たことが新撰姓氏録に記されている。 又垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が崩御されたとき石棺を作って献上した記録がある。 玉作連は高魂命御孫天明玉命(別名玉祖命)の子孫で天津彦日瓊々杵尊が芦原の国降臨のときに従って神事用の玉を造作した事が記録に残っており当地の南500mの所に古墳時代日本最古の玉作工房群の遺跡がある。 この両部曲は何れも古代における高度な文化を持ち木之本町南郊での経済上人文上の中心をなしていたと考えられる。 しかし、度々の戦禍で社殿は焼失しその都度村人相協力して再建してきたが文明4年(1472)当地の地頭であった佐々木民部少将が両社を合祀し更に千田の里邑の産土八幡の神を相殿に祀った。 現在の社殿は延宝5年(1677)村人達によって再建したもので、大正11年(1922)に県社に列せられた。 玉垣移転記念 平成13年11月吉日 之建 社頭石碑 |
石作玉作神社 玉姫物語 むかし、千田は、石作りの庄と呼ばれていました。 この里に、そうざえもんという人が住んでおりました。 そうざえもんさんには、名を玉姫という、それは美しい娘さんがありました。 そして、このことを、どこから伝え聞いたのか、伊吹の山に住む伊吹の三郎という男が、この娘をひと目みたいと里へやってきました。 伊吹の三郎は、大変な怪力をもった大男でした。その上、里をあらしまわり、人々からは、大層恐れられておりました。 三郎は、草屋根の下で、無心に玉を磨いている玉姫の姿にひと目ぼれしてしまいました。 そして、さっそく「娘をわしにくれ。」と、そうざえもんさんに頼みました。 そうざえもんさんは、「嫁にはやれぬ。」と恐る恐る、でも、きっぱりとことわりました。 怒った三郎は、伊伊吹の山の岩石を石作りの庄めがけて投げつけました。投げつけた石は、その里の岩田という田に落ちました。 今も、その石が、千田のお宮さんにまつられており、伊吹の三郎の手の跡が残っているのが見られるということです。 社頭石碑 |
石作神社・玉作神社 創祀の年代悠遠にして詳かでないが石作神社の祭神天火明命は、石作連の祖神であって、往昔石作郷と称し、延喜式神名帳伊香郡46座の内に石作神社の鎮座を見る。現在水田の中に石作と称する1小丘あり、古来より浄地として犯す者なく、若し之を犯さば忽ち神罰を蒙るという。蓋しこれ徃古の当社の旧址なるか、或は上古石作連の首長の墳丘なるか明かならざれども、当社とは不可分の地点なり。玉作神社も延喜式神名帳にみる古社である玉租神を以って祭神となす。古事記天孫降臨の段に、玉祖命は、玉租連の祖先なりと記し、日本紀には玉屋命と記されている。玉作氏鎮座の地方は古代に於いて高度な文化的なものを把持した特区である。玉作又石作の部曲は、上代文化の地方伝播の前衛なりしというべきであろう。されば本郡に於て、玉作、石作の神社を此の地に見る事は、本郡の上代文化の中心地が何地にありしもを示すものというべく、経済上の、はた人文上の発祥地帯と目すべきものである。所詮当神社の地理的位置は、古代開明の基本点たりしというべく、それが中世以降の戦禍に災されて、本社の社運を幾度か傾けたが、その都度再建、再興が試みられて今日に至ったものである。明治9年村社に列し、明治18年に郷社に、大正11年県社に昇格した。 滋賀県神社庁 |
石作神社 石作は伊志都久利と訓べし○祭神石作連祖神歟○在所詳ならず 姓氏録、(左京神別下)石作連、火明命六世孫建真利根命之後也、垂仁天皇御世奉為皇后日葉酢媛命作石棺献之、仍賜姓石作大連公也、また、(摂津國神別)石作連、火明命六世孫武椀根命之後也、また、(和泉國神別)石作連、火明命男天香山命之後也、また、(山城国神別)石作、火明命之後也、〇三代実録、貞観7年3月28日己酉、近江國言、伊香郡人石作部廣継、女、 類社 (欠く) 神社覈録 |
玉作神社 玉作は、多麻都久利と訓べし〇祭神在所等詳ならず 神社覈録 |
郷社 石作神社 玉作神社 祭神 天火明命 建速須佐之男命 玉祖命 相殿 品陀別命 事代主命 創祀年月詳ならすと雖も、三代実録貞観7年の條に、伊香の孝子石作部廣継の女等と見えたるを以て見れば、此地石作部氏の住所にして、其の族の人が祖神を祀りしに起原せるものなるべし、醍醐天皇延喜の制小社に列し(延喜式)、当時石作神社玉作神社各一社あり、後合して一社となる、足利氏の末に至りて、佐々木、淺井両氏の崇敬深く、社領の寄進も少からず、後交戦の巷となるや、数々兵火にかゝりて社頭の頽廃甚しかりしが、後水尾天皇元和元年千田某なるもの、大に修理を加へ八幡宮を合祀す、明治9年10月村社に列し、18年郷社に連み建速須佐之男命を合祀す、境内1053坪(民有地第二種)、社殿は本殿、拝殿、神餞所、神門、井戸屋形等を具備せり。 明治神社誌料 |