この地は元は十禅師社の地であった。往昔は、村の東の小字宮塚に本殿があり、別宮はその南方の小宮の地にあり、その東南に北の神、中の神、南の神と称する末社があつたが、天正の兵火によつて荒廃し、わずかに村内に残つた十禅師社に神霊を奉遷したという。 現在も本殿の南側には十禅子社の小さな祠がある。 式内社多太神社、式内社乃伎多神社の論社となっている。 |
乃伎多神社 当社はその創立の年代を詳になすを得ないが物部氏の遠租鐃速日命の御孫味鐃田命を奉斎し物部の里の産土神としたのに起る。往古は大社であったと云い伝えられ村の東南方に鎮座ありその地は乃伎多と称する小字で今なお正の宮塚としてその跡を遺している。この本宮の南方外宮の地に別宮あって今小宮塚ありその東南方に北神、中の神、南の神という小字の地に宮跡と思われる場所がある。中の神に在っては毎年8月16日一夜酒を古伝の儘に斎行している。又本宮の西に神田と称して神供田の跡あり御苗代であったことが、民図帳に登載されたいる。この田地は慶長年中迄は御領として神主物部五位某という者本宮別宮一切と共に支配したという。今五位と称する地名の存するはその屋敷跡と伝える。これより先、天正の兵火に荒廃したがその際焼失を免れた十禅師社に一時神霊を奉遷したと伝える。明治9年村社に列し、明治42年10月13日神饌幣帛料供進神社に指定された。延喜式内社(論社) 滋賀県神社庁 |