平地。田中の中に鎮座する。 浅井氏の家臣阿閉淡路守の庇護を受けていたが、賤ヶ岳の戦いの際兵火に失した。 |
乃伎多神社 式内乃伎多神社 由緒略抄 御祭神 誉田別命 天造日女命 本社は古書諸社根元記に伝えられる近江国の気多明神様で戦国武門の繁栄と共に八幡の大神を合祀して崇敬せられ北八幡宮とも呼ばれました。其昔後光厳天皇が堅田より塩津を経て美濃の国へ御幸の際御参籠になったと伝えられ今も地名に高座御座畑御幸街道等と云う名跡が残って当時の有様が偲ばれます。 本社のお祭りは昔からもろこの祭即ち諸子或ひは諸戸の祭と云われ今で云えば一般大衆挙てのお祭りと云った事であります。 例祭9月13日に初秋天高肥馬の折柄もろもろの子が競って小川の鮮魚を補って神様にお供えしたところから後世モロコ祭と異名せられるようになりました。 私たちの祖先が代々連綿と日夕お敬ひをし五穀豊穣を祈り豊作感謝のお祭りを行ひ子孫の繁栄を願っては産児の初宮詣でに子供の幸運を祈願せられたお宮であります。 宮司 阿閉真雄 識 社頭石碑 |
乃伎多神社 当社は「諸者根元記」に伝える近江の国の気多明神で「乃伎多」の「伎多」の音「気多」に訛ったものが後世、気多明神と称えるに至らしめた。この地一体往昔、安曇の郷と称して安曇連の裔族此地に繁延し、その祖を祀ったものと伝える。当社に誉田別命、この地の西方数町の山本山に神社鎮座の地名に負える阿閑淡路守の城くありて、小谷山の浅井氏と呼応した。おそらくその当時この武門が勧請し守護神と崇め祀られ北の八幡宮とも称せられた。天正の賤ヶ獄戦の兵火に社殿炎上し、現在の社殿は寛政9年の造営と記録せられる。当社に古くから「もろこ祭」と称する祭儀が行われた。その本儀は「諸児の祭」で氏子中の稚児の生長を祈ったものであるが、今は9月13日の例大祭に併せ行われ居り、今も「もろこ」を献ずるのである。延喜式内社。(論社)明治9年村社に列し、明治42年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。 滋賀県神社庁 |
乃伎多神社の平安仏 滋賀県長浜市高月町渡岸寺の「高月観音の里歴史民俗資料館」で、普段は公開されていない「東阿閉(ひがしあつじ)・乃伎多(のぎた)神社の平安仏」が8月8日までの会期で特別陳列されている。平安後期に造られた4躯(く)。同市の観音像を東京で展示する「東京長浜観音堂」から帰ってきた聖(しょう)観音立像(りゅうぞう)も6月29日から特別公開している。湖北地方の信仰文化の一端にふれてもらう企画だ。 平安仏は同市高月町東阿閉の乃伎多神社薬師堂に安置されている。像高は108〜94・4センチでいずれも木造。東阿閉自治会が所蔵する。 4躯のうちの1躯は薬師如来立像。左手に薬壺(つぼ)を乗せ直立する。簡素で素朴な趣がある。別の1躯は聖観音立像。十一面観音として造られたが、後世に水瓶(すいびょう)を蓮華(れんげ)に持ち替え、聖観音として修理された可能性が高いという。他の2躯は、目を怒らせている毘沙門天立像だ。 一方、帰ってきた聖観音立像は常楽寺(湖北町山本)蔵。天衣などは輪郭のみ表し、衣文線は一切表現しない点に特色がある。5月12日から6月12日まで東京長浜観音堂に出陳され、期間中に1278人が来館した。高月観音の里歴史民俗資料館では7月18日まで公開される。 朝日新聞デジタル2022年7月1日 |
乃伎多神社 乃伎多は假字也○祭神在所等詳ならず 神社覈録 |