社殿の後ろの山地を布勢山と称し、布勢山には巨大な巖が存在する。 布勢山には、社殿の後ろ約一町程のぼつた所に、立石巾一二尺・高さ三〇尺・厚さ五尺、布勢岩一つ石で直径三〇尺の圓形の巨巖が雄然と存立していて布勢立石の社名をそのままそこにのこしているように思われる。 布勢山の立石を神として信仰し、古代の磐座を拝する所に社殿が設けられたのではないかと考えられる。 現在の鎭座地は神社入り口より不自然に左に折れた、斜面の上にある。入り口より直進した場所、現社殿の右手約30m程の山中に旧社地がある。 |
由緒 当社祭神は布勢氏の祖神にして創立は天武天皇6年と云う延喜式内社にして既に神威顕著の古社たるを知る。応神天皇の皇孫意富富杼王の喬布勢宿称野勧請なり。 又配祭神は正中2年6月坂本日吉大社の分霊を勧請せしものにして同時に神領神戸を賜ると云う。本社御垂池の下流に山王田 猿喰田 宮用等関連深き小字名現存す。 中古山王立石権現と称し通称山王様と親しまれ、社地の背後は鬱蒼たる布勢山の神林深く中腹に古代磐境祭祀の跡と想われる巨磐峻立し布勢立石の社名もここに由来すると考えられる。 当社は祭神の後喬布施(勢)氏の崇敬篤く、社蔵正徳年間の古文書には天台宗養泉寺との関わり深く、当社おこない神事に同寺の和尚に依る参詣読経、又西山、坂口、千田、磯野、東物郭、横山、布施等の諸頭神事に参列せし事が記され、御神威の広きに及びし事が窺える、又文化元年6月氏人等社殿を新たに造営せんと計り社地の広狭を論争して破談せしに、一夜社地頻りに鳴動し現社殿の横より多くの土砂崩出して止らず、氏人等大いに畏怖し宮に上申するに当時の領主井伊候是正に神意の致すわざ也と金一封を献納し直ちに造営の事を奨め此の業を扶けたと伝う。 現在の社殿は此の時の造営にして、当時赤尾、北布施、布施三ケ村野総社たりしも布施(年暦不詳)北布施(明治8年)赤尾本郷(明治43年)それぞれ分離し現在は田居前郷のみにて護持する、明治9年村社に列っせられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
布勢立石神社 天武天皇6年布勢宿禰が祖神として奉祀したのが肇であろうと伝える。明治9年村社に加列同42年神饌幣帛料供進指定神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
布勢立石神社 布勢は假字也、立石は多氏以志と訓べし、〇祭神在所詳詳ならず 考証、在市勢村と云り、與地志所見なし 神社覈録 |