与志漏神社
よしろうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】与志漏神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】与志漏神社
   【住所】滋賀県長浜市木之本町古橋1102
       北緯35度30分26秒,東経136度15分5秒
   【祭神】神速須佐之男命 波多八代宿禰命
   【例祭】4月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】景行天皇25年武内宿禰鎮祭
       聖武天皇の時行基法師神影像を彫刻
       明治9年10月21日村社
       明治18年6月29日郷社
       明治42年10月13日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】波多氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「世代大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・中門・社務所・水屋

   【境内社】八幡神社・春日神社

波多八代宿弥(淡海の祖)を祭神とする、ヨシロは祭神波多八代宿禰之命と関係が深いものと思われ、『ヨシロ』は八代の転訛せるものという。
広大な神域をもち、往古は世代大明神と称し、湖北三郡に氏子を擁するなど神威もまた絶大であったことが窺がえる。


己高閣・世代閣

平安から鎌倉時代にかけて、山岳信仰の霊場として隆盛を極めた己高山。
かつて山中には数多くの寺社が存在しましたが、時代の推移とともに次々と無住あるいは廃寺となりました。
それらの寺に残された、膨大かつ貴重な寺宝を安置するため、昭和38年(1963)に己高閣、平成元年(1989)に世代閣が文化財収納庫として建設されました。
97体の仏像をはじめ、古橋古墳からの出土品や浅井長政の奉納屏風などが収められています。
その中には、鶏足寺の本尊であった十一面観音立像、法華寺の薬師如来立像・乾漆十二神将立像といった国指定の重要文化財や、県の重要文化財も多数含まれています。
<重文>木造十一面観音立像、木造薬師如来立像・乾漆十二神将立像

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與志漏神社

考証参考(郷社與志漏神社)
当神社御祭神須佐之男命を此地に齋き奉るに至りしは遠く景行天皇の御宇に始まる。即ち景行天皇の即位25年武内宿禰、北陸及東方諸國巡視の命を受け此の地に來り、更に北越の國に入らんとし給へり、(上古は今の北陸街道未開けず近江より北陸に入るには此地より高時川を遡りたるものなり)然るに此地土地肥沃にして水利の便宜しきを得しに人煙極めて稀なりしかば、宿禰之れを怪しむ、偶々白髪の老翁宿禰の傍に現はる、即ち宿禰問ふて曰く住むに易かるべき地なるに人跡極めて少なきは何故ぞと、老翁答へて日く、此の地の東方己高山の山中大蛇の棲むあり、人畜を害すること屡々なり、人深く之を恐れ住み慣れし耕圃を捨てて皆他に逃ると、宿禰之を聞きて憐み後日必ず大蛇を討つべきを誓はせ給ひて越の國に入り給ひ二年にして復命し給ふ、妥に宿禰即ち約に遵ひ其子波多八代宿禰に己高山の大蛇を討つべきを命じ給ふ、即ち八代宿禰父が命を奉じ此の地に來り給ひ大蛇を討たんとし給へるに勢ひ強猖にして半歳を閲するも之れを討つこと能はず、八代宿禰ここに思ひ給はく神代の昔、肥の川上に須佐之男命の八ツ頭の大蛇を平射げ給びし故事あり、如がず、この大神の力を籍らむにはと其の御佩かせる御劔に大神の神霊を齋き奉りて漸ぐ之を平らげ給ふ(今も己高山中蛇が谷と云ふ宇ありて大蛇の棲みたりと云ふ大なる岩窟あり、人今に惟る)於此大蛇の難を避け居たりし此地の土民皆帰り來りて農耕の業に安んず。斯くて八代宿彌の此地を去らむとし給ふや衆皆之れを惜み乞ふに永くこの地に駐り給はむことを乞ふこと頻なりしかば八代宿禰亦之れを納れ宮殿を造営し之れに住み給ひ猶須佐之男命の霊を齋き奉らる、その子孫又此地に繁榮して允恭天皇即位4乙卯年淡海臣の姓を賜り(古事記云武内宿禰之子九 波多八代宿禰者、波多臣、林臣、淡海臣、星川臣、長谷部君之祖也、とあり)國造縣主などに任げられたるもの多し、八代宿禰薨去し給ふや郷人其の威徳を追慕するの余り、其の霊を先きに宿禰の齋き奉りし須佐之男命に合せ祀りて此の郷の鎭護の神と崇め奉り、波多八代之大神、後略して、八代之大神と称へ奉る之れ当社の起源なり。其後、聖武天皇の神亀甲子行基の此の地に鶏足寺を開くや、此の大神を鎭護の神と齋き奉り、世代大権現と称す(後に與志漏大権現)この時代より「ヨシロ」の称起る、蓋し「ヨシロ」は八代の転訛せるものなり「古事記傳二十二巻に云ふ同國伊香郡に與志漏神社ありよしろはやしろに近し祭神波多八代宿禰ならん」更に降りて大同四乙丑年釈最澄鶏足寺及び当社の荒廃せるを惜み之を再築す、之より當社は鶏足寺と其の興廃を共にし來り鎌倉の末葉時代より地方の豪族武家の崇敬するところとなり殊に淺井家三代の祈願所となり奉納の宝物数点並に長政の木像を安置す。」

滋賀縣教育課編『神社由緒記』



與志漏神社

景行天皇の御代 武内宿称勅命により、北陸巡行の折この地にさしかゝり、荒廃殊の外著しく、この原因は大蛇生棲し人畜に危害を及ぼすと聞き、その子波多八代之宿称を招き須佐の男命の神霊を御剣に勧請しこれを討ち給う、これによって難を他郷に避けていた郷人帰農しいたく宿称の徳として、須佐之男命の神霊と併せ祀るに至る。聖武天皇の御字、行基この地に来錫し、この大神と習合するに己高山に鶏足寺を創建し、当地の傍らに社坊を建立した。降って桓武天皇の御宇、最澄が鶏足寺の荒廃を再興し「十所権現」と称して鶏足等の鎮守としたが、当社もその内に加えられた。「世代山戸岩寺」も現存し、天平時代の諸佛を遺し重文となっている。浅井長政も神田を寄進その奥方お市の方の寄進と伝える屏風一双あり、昭和38年神社境内地に校倉式の収蔵庫を建設して天平佛、鎌倉佛を収蔵した。明治9年村社に同18年郷社に列し、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。延喜式内社。

滋賀県神社庁



與志漏神社

脇社春日社 八幡社
祭神
神速須佐之男尊
波多八代宿禰
草創年月日は不詳であるが社伝によると、世代大明神として古代から東西二里南北五里におよぶ余領郷の氏神として崇敬された大社であった。
祭神の波多八代宿禰は古事記、日本書紀では武内宿禰の子、淡海(近江)臣の祖と記されている。社伝では仲哀天皇が角鹿(敦賀)へ行幸の際この地に立ち寄り波多八代宿禰に命じて賊を退治させ、この地方を治めさせたと有り、古代から氏族の祖として、祀られ親しまれてきた延喜式神名帳にある古社である。

社頭掲示板



與志漏神社

與志漏は仮字也〇祭神詳ならず〇古橋村法華寺鎮守也、今七所権現と称す、其垂迹熊野、白山、世代、横山、犬音、大宮、二宮也、(與地志、法華寺縁起)

神社覈録



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