伊香具坂神社(八幡神社境内社)
いかぐざかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊香具坂神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】伊香具坂神社(八幡神社境内社)
   【住所】滋賀県長浜市高月町柏原774
       北緯35度28分43秒,東経136度14分31秒
   【祭神】神速須佐之男命
   【例祭】5月9日 例祭
   【社格】旧無格社
   【由緒】由緒不詳
       明治29年3月八幡神社境内に遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは大字馬上小字森山に鎮座
        明治29年3月八幡神社境内に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿流造
       

   【境内社】

現在の鎭座地は、八幡神社の境内地にある。背後は国道が通っている。
『近江伊香郡志』では、「本社往古より大字馬上小字森山にあり、此附近一帯の山林耕地大字柏原の郷に属せしを以て、祇園牛頭を勧請す」と記しており、大字馬上小字森山に旧社地があるという。


伊香具坂神社

祭神 神速須佐之男命(牛頭天王)
当社は往昔「延喜式」国弊小社に列せらる古社で、赤坂天王の地に鎮座せり。
蓋し仏教隆盛の世、この神を牛頭天王と称し奉り「天王の宮」の称号も伝わる。
古来神威顕著にして、元亀の頃(16世紀)越前の朝倉景鏡、浅井氏と結んで出陣の砌、社前を乗馬のままにて打ち過ぎし給うに、忽ちに落馬せり、景鏡いたく神威をかし込み自ら筆をとって禁札札をたて出陣した。
明治29年3月八幡神社境内に遷座さる。

社頭掲示板



八幡神社

祭神 応神天皇
由緒
本社は源義家がこの遅に来り暫し滞留の砌男山八幡宮を勧請奉斎別当神宮寺を傍に創建して奉仕武運長久を祈る。武家政事の代江北に於ける武門の崇敬する宮となり同字には佐味神社(式内)伊香具坂神社(式内)が上古より鎮座されているにも拘らず中世に至り当社が字の氏神の地位を占め現今に至ったと考覈。
元和元年社殿を再建、享保年中林丘寺の宮御筆の御神号を賜り、昭和の大誉祭の建物中その朝集所を下付神社境内地に移築した明治9年村社に列す。

社頭石碑



高月町指定文化財

木造薬師如来立像一躯 平成7年5月1日指定 
柏原区所有・管理、阿弥陀堂安置、平安時代
像高97.6cm、ヒノキ材一木造、彫眼、古色
頭・体幹部は一材より彫出し、内刳りはみられない。
■衣には、平安時代初期から中期にかけて盛行した翻波式衣文かみられる。襟口がひるがえるさま、腹前にたたみ重なり下腹部でU字型を繰返し、腰から両脚の間に流れるY字型衣文、豊かに盛り上がる胸・腹、衣文を刻まず張りを強調する両太ももなど、豊満な肉取りとそれを包むしのぎだった衣文に、典型的な一木造の特徴をみることができる。ただ、本来の彫りの深い衣文に比して相好がやや穏やかにすぎ、後世の手が入るかとの疑いをもたせる。
一木造の技法・翻波式衣文・量感にあふれる体躯等から、本像は平安初期、9世紀の様式を基本としていよう。しかしなから、全体に動きが抑えられ、こじんまりとしたまとまりをみせる点や、衣文に生動感が若干不足してやや形式化されている点、穏やかな相好、さらに本像が都を離れた地方の作であることなどを考慮すれば、10世紀末期から11世紀前半頃の作と推定される。
平成7年5月
高月町教育委員会

社頭掲示板



八幡神社

社伝によれば、源義家がこの地に来り、暫し滞留した砌、男山八幡宮を勧請奉斎、別当神宮寺を傍らに創建して奉仕せしめ、武運長久を祈らしめた。武家政治の代となりては江北に於ける武門の崇敬するところとなり、同字内には佐味神社(式内)又伊香具坂神社(式内)が上古より鎮座されているにも拘らず、中世に至り当社が字の氏神たる地位を占めてより現今に至ったものと、考覈される。元和元年社殿を再建し享保年中、林丘寺の宮御筆の御神号を賜っており昭和の大嘗祭の建物中、その朝集所を下附になって神社境内地に接して移築した。明治9年村社に列した。

滋賀県神社庁



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