佐波加刀神社
さわかとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐波加刀神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】佐波加刀神社
   【住所】滋賀県長浜市木之本町川合1277
       北緯35度31分6秒,東経136度14分48秒
   【祭神】日子坐王 大俣王 小俣王 志夫美宿禰王 沙本毘古王
       袁邪本王 佐波遅比売王 室毘古王

   【例祭】4月16日 春季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立は天平年間以前
       貞観5年(863)5月25日従五位下
       応永26年(1419)9月7日火災焼失
       同29年(1422)京極近江守源高光再興
       正長年中足利義教公神田寄進
       萬治3年(1660)造営
       嘉永3年(1850)造営再興
       明治9年10月村社
       明治34年3月神像8体国宝に編入
       同41年4月29日神饌幣帛料供進指定社

   【関係氏族】
   【鎮座地】百聞山に鎮座ありしを天平年間現在の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「佐波加六所明神」「佐波加刀七社明神」と称していた
   【社殿】本殿流造板葺
       拝殿・中門・水屋・祭器庫・鐘楼

   【境内社】八幡神社・稲荷神社・金刀比羅神社

百聞山が旧地である。
天正年中に現在の地に移された。
神体は木造神像にして八体とも明治34年3月27日内務省告示で国宝指定。現在では、重要文化財彫刻に指定されている。


佐波加刀神社記

御祭神 日子坐王(開化天皇の皇子)、大俣王、小俣王、志夫美宿祢王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王
御由緒 本社は元、百聞山に御鎮座ありしを天平年間現在の地に遷座す。社殿は万治3年及嘉永3年に再建せられたるものなり。當社は延喜式神名帳に載せられたる近江国一百五十五座の中伊香郡四十六座の随一なり即ち神紋は一の宮の文字を図案化せしものなり御神像八体は明治34年3月国宝に編入せられ更に昭和25年8月に重要文化財に指定せられたり日子坐王の御陵墓は岐阜市岩田町北山にあり
例祭 4月16日
旧跡   百聞山 ■島居坂

社頭石碑



佐波加刀神社

社鎮座の年代は明らかでないが日子坐王は開化天皇の皇子で御母は姥津媛命であり大俣王以下七柱の王方は何れも同皇子の御子であります旧事本紀(十国造本記)に本社の祭神たる彦坐王の3世の孫大蛇牟夜別を成務天皇の後世淡海国造に定められたとあるところより推察するならば、その国造の子孫がここに繁行すると共に、いつの世にか祖先たる彦坐王を始めとし関係の他の王を併せて奉斎する1社を創立したのが本社の起りと思われます。1つの伝えにはそれは天平年間のこととせられており平安朝に入いるや醍醐天皇延喜の制国幣小社に列せられ、祈年の幣帛に預った。中世神仏習会の結果、いつしか東林坊という神宮寺ができ、建久元年良峰宗勝、本殿を再興し、又応永26年火災に罹りて、神社仏堂ともに烏有に帰するや、同29年領主京極高光、之を再興し又永享年中、将軍足利義教、上司に禄を与え神領を寄せるなどした。しかし戦国乱離の世となって、全く荒廃を来すに至った。後渡辺勘兵衛推庵豊臣秀吉社殿堂舎の修復をしたが江戸時代には彦根藩の崇敬厚く藩主の参拝又代参寄進等のことがあった。氏子の崇敬亦深く万治3年嘉永3年等の再建を経たものが現在の社殿である。延喜式内社。明治9年村社に同41年神饌幣帛料供進神社に指定された。

滋賀県神社庁



佐波加刀神社

佐波加刀は假字也○祭神在所等詳ならず

神社覈録



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