百聞山が旧地である。 天正年中に現在の地に移された。 神体は木造神像にして八体とも明治34年3月27日内務省告示で国宝指定。現在では、重要文化財彫刻に指定されている。 |
佐波加刀神社記 御祭神 日子坐王(開化天皇の皇子)、大俣王、小俣王、志夫美宿祢王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王 御由緒 本社は元、百聞山に御鎮座ありしを天平年間現在の地に遷座す。社殿は万治3年及嘉永3年に再建せられたるものなり。當社は延喜式神名帳に載せられたる近江国一百五十五座の中伊香郡四十六座の随一なり即ち神紋は一の宮の文字を図案化せしものなり御神像八体は明治34年3月国宝に編入せられ更に昭和25年8月に重要文化財に指定せられたり日子坐王の御陵墓は岐阜市岩田町北山にあり 例祭 4月16日 旧跡 百聞山 ■島居坂 社頭石碑 |
佐波加刀神社 社鎮座の年代は明らかでないが日子坐王は開化天皇の皇子で御母は姥津媛命であり大俣王以下七柱の王方は何れも同皇子の御子であります旧事本紀(十国造本記)に本社の祭神たる彦坐王の3世の孫大蛇牟夜別を成務天皇の後世淡海国造に定められたとあるところより推察するならば、その国造の子孫がここに繁行すると共に、いつの世にか祖先たる彦坐王を始めとし関係の他の王を併せて奉斎する1社を創立したのが本社の起りと思われます。1つの伝えにはそれは天平年間のこととせられており平安朝に入いるや醍醐天皇延喜の制国幣小社に列せられ、祈年の幣帛に預った。中世神仏習会の結果、いつしか東林坊という神宮寺ができ、建久元年良峰宗勝、本殿を再興し、又応永26年火災に罹りて、神社仏堂ともに烏有に帰するや、同29年領主京極高光、之を再興し又永享年中、将軍足利義教、上司に禄を与え神領を寄せるなどした。しかし戦国乱離の世となって、全く荒廃を来すに至った。後渡辺勘兵衛推庵豊臣秀吉社殿堂舎の修復をしたが江戸時代には彦根藩の崇敬厚く藩主の参拝又代参寄進等のことがあった。氏子の崇敬亦深く万治3年嘉永3年等の再建を経たものが現在の社殿である。延喜式内社。明治9年村社に同41年神饌幣帛料供進神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
佐波加刀神社 佐波加刀は假字也○祭神在所等詳ならず 神社覈録 |