太古この地は湖にして郡国とも無かったが須佐之男命肥の川上にいる八俣遠呂知を退治し、この地の東、阿介多と称する小高き処に来臨して御剣についた血を洗い給いた御霊蹟という。 当社の北湧出山頂に所在する湧出山古墳群を形成したこの地方の豪族とこの神社の関係が考えられる。 |
桜椅神社 當神社は第51代平城天皇が御宇傳教大師の勧請に係り祭神須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命を奉齋す。 太古此の処は湖にして郡國とも無かりし時須佐之男命肥ノ川上なる八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側なる阿介多と称する小高き処に來臨ありて御劒につける血を洗ひ給ひし御霊蹟なりと傳ふ、延喜式内社にして佐久良波志とも称し土人櫻の宮とも称したり。 本社に往昔より別當神宮寺を創立し満願院と唱へ神官と共に祭祀を兼掌せしむ、社頭が盛衰幾変遷元亀天正の頃江北淺井氏等の戦乱相続き此の地戦図に入るや兵火に逢い大いに衰頽しその後神宮寺も廃院となる。而して吉田家の配下となるや牛頭天王を奉戴してより櫻山の天王と世人尊称し、元禄2年社殿修覆藤本氏明治10年に至る迄相続す。明治41年神饌幣帛供進神社に指定さる。 昭和27年神社明細帳 |
櫻椅神社 平安朝初期に伝教大師の勧請と伝える。須佐之男命、肥ノ川上なる八俣遠呂知を退治し給ひて阿介多と称する丘に降臨ありて、御剣に着いた血を洗ひ給うた霊蹟なりと伝える。明治9年村社に列し明治41年神饌幣帛料進神社に指定せられた。延喜式内社。 滋賀県神社庁 |
櫻椅神社 櫻椅は佐久良波志と訓べし○祭神在所等詳ならず 神社覈録 |