街中平地の小社。社名を赤見神社と称するのは、祭神の山田赤見皇女の名によると言われている。 |
赤見神社 当社は、鎮座の年代を詳にせざるも、延喜の制伊香46座の1に登載せられた式内社て、勾え金箸官の天の下知ろし食した。安閑天皇並に皇后山田の皇女の御二柱の神を奉斎した所である。社名を赤見神社と称えるのは、皇后の亦の御名山田赤見の皇女というのに由来すると伝える。而して当地は、往昔赤見の里と称し、現今は磯野という。清和天皇貞観年中、従五位上勲八等に進められたと伝える。往昔は壮麗なる神社として世に宣伝せられ隆盛を極めたが、天正年間戦乱の為衰微した。のち境内に隣して宮寺、観音堂を建立し、赤見山磯野寺と称え、村民等この社寺を共に崇敬し、漸次復興して今日に至った。明治9年村社に列し、明治42年神饌幣帛料供進神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
十一面観世音菩薩 江州伊香三十三所 十二番札所 赤見山磯野寺 尊像十一面観世音菩薩 観音堂は赤見神社境内の一段高い所にあり、尊像の十一面観世音菩薩は正面中央に安置されています。 このあたりは古くから「赤見の里」と呼ばれ赤見神社の祭神である二十代安閑天皇(531〜535)の皇后春日山皇女(山田赤見の皇女)に由来するといわれています。 推古天皇8年庚申(600)赤見の境宮内にはすでに霊水が湧き出しており、その後歳月を経て奏聞し奉ったところ、厩戸皇子(聖徳太子)が御臨幸になり「泉色青藍の如く味殊に甘露の如し、是れ醍醐の水ならんか」と述べ給い、是により泉の側なる桂の木を伐り氏人の病気平癒を祈念し大悲像を彫刻し一宇を建立し、赤見山磯野寺と号し給い御自筆の法華妙典を奉納給うと古文書に伝えられています。 現在、境内の南は、「草の根広場」になっていますが明治初期までは清楚で美しい蓮の花が咲き薫り観音堂へお参りされる多くの人々の心を清らかにしていたと伝えられています 病気平癒の祈願、御利益を受けた人々が奉納された歌の中に蓮の花を折り込んだ歌が数多くあるのはそのためです。 御詠歌 恵み咲く磯野の蓮を眺むれば 心の花も開くなりけり 社頭掲示板 |
赤見神社 赤見は何加美と訓べし〇祭神在所等詳ならず 神社覈録 |