横山神社
よこやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】横山神社 近江国 伊香郡鎮座

   【現社名】横山神社
   【住所】滋賀県長浜市高月町横山297-1
       北緯35度29分2秒,東経136度13分6秒
   【祭神】大山祇命 少彦名命 泉龍大神
   【例祭】4月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】光仁天皇の御宇守淡海眞人三船の勧請
       天正年中兵火
       明治9年10月村社
       明治41年神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       舞殿・祝詞舎・手水舎・社務所

   【境内社】

田の中の大社。集落のはずれに鎮座する。境内に「横山神社古墳」比高2mがある。
天徳元年(957)、時の神主であった横山将艦が横山の地に勧請したと伝。


滋賀県指定史跡 横山神社古墳

昭和57年3月31日指定
西野山丘陵の尾根上やその東麓の平地には、数多くの古墳郡が所在する。
横山神社古墳は中でも北寄りにあり、前方部を西に向けた全長約36mの前方後円墳である。前方部はやや広がり、後円部南側にある石槨から、横穴式石室を主体部とする古墳時代後期(6世紀頃)の古墳と推定される。
現在の規模は後円部径21m、高さ2.3m。周濠の有無は明らかでなく、葺石、埴輪はもたないようである。
当古墳の周囲には北東に前方後円墳と推定される兵主神社古墳、西方に古保利古墳群、北方に湧出山古墳、南方に姫塚古墳などが分布し、その中の一つに横山神社古墳がある。これらの古墳は湖北地方北部における古墳時代の首長墓系譜を明らかにする上で、貴重である。
平成2年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



横山神社

第49代光仁天皇の御宇、真人三船が勧請した所と伝える。天正年間兵火に焼かれ、其の後再建せられて今日に至る。明治9年村社に列し、明治41年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。延喜式内社(論社)

滋賀県神社庁



横山神社

悠遠なる上代に於て、私達の民族信仰として、雄大且秀麗なる横山岳の雄峰を神聖視して、神霊の憑るところのものとして崇敬したものと考えられる。 この雄大なる山岳は、標高1132mにして遠く東浅井郡等の各地より遥かに望見され、而かもその方向より来たる水流の灌漑によって農耕の業を創め、生命を保つを憶った素朴な農民等がこの山獄を以って神霊的存在として崇拝した事は今も他町の地に拝所というを伝えその行事によっても想見されるところである。
当社に伝わる記録によると、推古元年(592年)2月の申の日に、横山五智様子の滝のほとりの杉の巨樹に神霊の降臨あり、郷人その霊夢による神告に随い、翌年(593年)その杉樹を以って神像を彫刻し、経の滝上に社殿を建立奉祀して、本宮横山大名神とあがめまつられたのである。
この様にして横山岳の中央の上部に鎮座されて伊香、東浅井両郡の農地を一望にし、且つ五智様子の飛瀑の懸れる景勝の地に鎮まつられたのも偶然ならずと思考されるのである。
かくて後仏教隆昌の世となり、白谷の馬頭観世音は本地仏として供に崇拝された。
 延喜18年(918年)4月17日神階従四位下に陞され(類聚符宣抄)延長5年(927年)藤原忠平等の勅撰せる延喜式神明帳、伊香郡四十六座のうち横山神社として登載された。
この地はまた奥美濃に通じる要所である為地頭職が置かれその要所に伊香厚行が任ぜられ、その守護神としてその祖伊香津臣命を奉祀されたのである。 古今集第八に「いかこのあつゆき」とあるはこの厚行で雅樂頭神祀大副たりしと伝える。天徳元年(957年)2月中申の日、時の神主横山将監、本地仏馬頭観世音を本郡の横山村に遷座する。かくして本宮横山神社出は、山岳の地に鎮座の為、参拝に難渋するので神慮を伺い、永亨11年(1439年)神主横山五左衛門が本宮を始め緒神を今の宮の内に遷座したと伝え、又別に伝える処では応永年間(1394〜1427年)の遷御なりともいう。
鎌倉時代当国を領した佐々木氏の重臣で、伊香の四家と云われた千田、布施磯野、赤尾の各氏が子孫の元服式を当社社前に於て行なわれたが、寛政年間に至って絶えたとつたえられる。
明治9年村社に列せされ、明治41年神饌幣帛料供進の神社と指定された。境内神社、二之宮(旧社号山王社)三之宮(旧社号蛭子社)は、永亨11年本宮横山神社が現今の社地に遷座ありし際、倶に遷座されたのである。
四の宮については当杉野は従来上組、中組、向組の三組に別れ、それぞれが守護の社を有し、上組は八幡神社と称し、譽田別尊を祀り、中組は又八幡神社と称し、応神天皇を祀り、向組は白山神社と称し、伊邪那岐命を祀り来たが、明治43年(1909年)2月26日、本社境内神社としてその三殿の祭神を一般に合せて奉祀、四之宮自づと生ずるに至った。この三つの組には古来より「おこない神事」があって元の鎮座の食堂にて行われて来た。合併遷座後も元鎮座地に遺る殿舎に御分霊を鎮め奉り、それぞれ古式による厳粛な「おこない神事」が行われている。
その期日は上組は2月13日、中組2月8日、向組は2月15日である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



木造馬頭観音立像

高月町指定文化財 木造馬頭観音立像 一躯 平成7年5月1日 指定
横山区所有・管理、横山神社安置、平安時代
像高99.6cm ヒノキ材一木造、彫眼、素地仕上
頭上に馬頭を戴いて炎髪を配し、天衣・条帛・腰裳を着して三面八臂をそなえて直立する、通例の馬頭観音立像である。頭体幹部を通して一材より彫出し、内刳りを施して背板をあてる。頭・体幹部は古い像の表面が荒れていたのを全面にわたつて彫り浚えている。
そのため衣文の調子は本来のものではない。衣文に沿って彫り直し時の切付けの線が残っている、当初の材は頭・体幹部を形成する主要部の一材のみと考えられる。三面いずれも忿怒相をあらわし、本面は開口、脇面は閉口し、上唇左右より牙上し、眉間に一眼を刻出する。
全面にわたる補修より、明確には判断しがたい点も多いが、ほとんど動勢を見せぬ点、忿怒相でありながら穏やかな性質の相好、下半身を紡垂形にまとめる形姿、浅く穏やかで簡素に整理され左右対称的な衣文などは、平安時代末期、12世紀頃の作風と考えられる。
もつとも、本像は地方作の故、時代は鎌倉初期ぐらいまで幅をもたせて考えるべきであろうか。
平成7年5月
平成22年1月1日 長浜市教育委員会 

社頭掲示板



横山神社

横山は與古夜麻と訓べし○祭神詳ならず○横山村に在す
類社
(欠く)

神社覈録



近江国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA