集落奥。山麓に鎮座する。白鳳13年創建という。 『滋賀縣伊香郡志』に「等波神社ハ往時火災二罹り社傳旧記神宝等焼失シテ傳ハラズト雖延喜式内等波神社タルコトハ口碑二顯然タリ依テ社地近傍ノ小字とばの鼻、宮前、門前等上古大社タルべキ景況ヲ存セリ」とある。 |
由緒 当社は等波神社と称し祭神は白鳳13年(西紀684年)に神示の奇端を得て鎮座されたと伝えられる。 天明7年(西紀1787年)に社殿神謇ことごとく類焼し一時御神体を当字里の由常宮権現社に奉遷したが翌年社殿再興し以後明治の初めには新社殿に常宮現社の祭神仲哀天皇、神功皇后を合記士現在に至っている。 明治初年村社に列せられ明治41年神饌幣帛料供進の社に指定された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
等波神社 白鳳13年の鎮座と伝え、延喜式内社である。明治9年村社に列せられ同、42年神饌幣帛料供進神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
田部山城跡 田部山城跡は、通称城山の頂部一帯に遣存し、西方足下に北国街道と北国脇往還の合流点およぴ木之本宿を俯瞰する要衝に位置する。当初は浅井氏の被官・田部氏の居城であったが、「元亀争乱」の際には朝倉軍が駐屯し、後には丁野の中島宗左衛門も在城したとされる。 城の縄張りは、「城山」の頂部(標高222m)に主郭と、南西60m地点の頂部(標高233.5m)より西北西に向かって二段に築成された副郭部を設け、その問は両端に土塁をもつ幅8mの廊下状地形を持って連結されている。 主郭部の中心は周囲を土塁で囲まれ、東西60m×南北26mの半月形を呈する曲輪となっており、中央西寄りには不整方形の土壇状の高まりがみられる、副郭部の最高所付近は「鳥かけ場」と通称され、東西18m×南北13mの四辺形の曲輪となっており、西側には低位の小曲輪を設けているが、両曲輪とも北側にのみ土塁が観察される、これより西端の下段は、南辺に虎ロの痕跡が残る東西16m×南北11mの曲輪と北側に接する傾斜地の下部には小曲輪が設けられている。 縄張りからは築城主体者の特定は難しいものの、曲輪の辺縁部の大部分を土塁が囲嶢する技法からは、戦国末期の改修がうかがえる。 木之本町教育委員会 社頭掲示板 |
等波神社 等波は假字也○祭神在所等詳ならず 考証に、今在止羽村と云う、與地志、此村を載せず、 神社覈録 |