走落神社
はしりおちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】走落神社 近江国 伊香郡鎮座
          (末社)意富布良神社

   【現社名】走落神社
   【住所】滋賀県長浜市高月町馬上1181
       北緯35度28分15秒,東経136度15分6秒
   【祭神】天児屋根命
       度会延経『神名帳考証』『近江伊香郡志』速飄別命

   【例祭】4月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】神亀年間の創立
       明治9年10月村社
       明治41年4月29日弊帛神饌料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社春日造檜皮葺
       社務所・御手洗舎・拝殿・中門

   【境内社】
   【神宮寺】境内地に接し、地藏堂(極樂寺)があり、かつて習合関係にあつた

社伝によると、神亀年間(724-29年)に創建されたと伝わる。
裏山に山田山古墳群が存在することからこの地方の古代豪族の奥津城を祀るものとして起つたと思われる。
境内地に接し、地藏堂(極樂寺)があり、かつて習合関係にあつた。
末社の意富布良神社が境内地にあり、「往古より大洞山に鎭座し給ひしを明治42年3月これに奉遷之」とあり、式内社意富布良神社の一つの論社ともなつている。
豪壮な負い縄(オイナワ)神事で知られている。


文化財保護事業

高月町歴史のおくりものシリーズ第一回
『槻の木十選』
往古、槻(ケヤキの古名)の巨木があることから、「高槻」と名づけられたこの地は、大江匡房(平安後期の歌人)が月見の名所と和歌を詠んだことから、「槻」の字を「月」に改めたといいます。
町名の語源・ケヤキの中から、大きさ・古さ・美観・風格・来歴・地域との結びつきなどを総合的に考慮し、左記の十本を選定しました。(順不同)
所在地 幹周り
尾山 井明神橋西堤 二本一組 3.3m 3.0m
井口 日吉神社   二本一組 4.3m 3.6m
雨森 雨森芳洲庵  二本一組 2.8m 2.6m
雨森 天川命神社  四本一組 5.8m〜4.2m
柏原 野神     一本   8.5m
渡岸寺 野神    一本   3.2m
馬上 走落神往   一本   4.3m
高月 薬師馬場   一本   4.2m
東物部 野神    二本一組 4.0m 3.5m
西物部 野神    一本   6.1m
高月町は悠久の歴史に満ちて文化の香り高く、豊かな自然に恵まれた美しいまちです。
先人がのこしてくれた埋もれた歴史的地域遺産に光をあて、その顕彰を通じて、この町のよさを再発見し、将釆に向けた、「個性と魅力あるまちづくり」に寄与することを自的に企画したのが、「高月町歴史のおくりものシリーズ」です。
平成3年3月1日
高月町教育委員会

社頭掲示板



走落神社

当初の創祀については、度重なる火災の為め、社蔵の文書を失い之を明確にすることを得ないが、古く神亀年間の創立と伝承する。往古は当村を走落村と称し、氏神の名を村の名称とした、仁和年間当地に名馬を産し、之を宇多天皇に献上、天皇大いに之を賞でられ、馬上の2字の辰筆の額を賜り背後の山麓に一祠を建立し納む。後にこの地を宇多山と称するに至った。後神託により鳥居に掲げた。その頃北国脇往還路として武門武将の往来繁く、この鳥居を通過の際は、必ず下馬拝礼した後に乗馬したと伝え、今もこの鳥居の近くに馬乗場という地名も現存する。天正11年賤蛾ヶ岳の合戦に際し豊臣秀吉美濃国より乗馬で来た折に、この鳥居の手前にて下車し戦勝を祈願したと伝える。天明7年大火ありて1村悉く焼失し、鳥居の扁額又社蔵文書も焼失した。延喜式内社。明治9年村社に加列。明治41年神饌幣帛料供進指定。

社頭掲示板



走落神社

走落は破志利於知と訓べし○祭神在所等詳ならず

神社覈録



近江国INDEXへ        TOPページへ


学校名簿