現在地を乎弥の森という。平安時代にこの地は興福寺の領地であった。 |
春日神社由緒 主祭神 武甕槌命 配祀神 素盞嗚命 当社は、創立年代不詳成れども、上代には「乎弥之明神」と唱え、今もその鎮座境内の森を「乎弥之森」と唱えており、古社たる事が窺われる。斯くして当社が春日神社と奉唱されるに至った由縁を考察するに、平安期この地が奈良の春日大社の社坊たり神宮寺たりし興福寺の領地となった事どもの関連に出た事が想見される。 配祀神の素盞鳴命を祀るに至ったのは、当社境内社に広峰神社の鎮座ありしが社殿大破により明治35年5月(1902)その筋の許可を得て、その祭神素盞鳴命を本社に合祀に因る。 江戸時代に入りて、この地は幕府直属の領地(天領)となり、土屋家累代がその管理に当り従って代官土屋家の崇敬もあって神威顕著にましました。 明治9年(1876)村社に列し明治41年(1908)神餞幣帛料供進神社に指定せられ、昭和3年(1928)10月26日郷社に列せられた。 文化財 神像三体 藤原時代様式 例大祭 4月8日 社頭石碑 |
春日神社 創立年代不詳なれど上代には「乎弥之明神」又は「春日大明神」と唱え明治初年に明神号を改め春日神社と称し今もその境内を「乎弥之森」と唱えている。境内巨樹として杉欅有り推定樹齢700〜1000年を経て居る。明治初年頃当社附近にて祝部土器を数多採集した外、社納されし古址あり、当社が春日神社と奉唱されるに至った由縁を考覈すれば、平安朝此の地が奈良春日大社の社坊である。興福時の領地となった事なども関連して創見される、配祀の素盞鳴命を祀るに至ったのは当社境内に広峰神社を鎮座してあったが社殿大破に依り明治35年本社に合祀した事に因る。明治9年村社に列し、明治41年神饌幣帛料供進神社に指定せられ、昭和3年郷社に列せられた。 社頭掲示板 |
滋賀県指定文化財 木造神像 四駆 平安・鎌倉時代 檜材一本造 彩色 彫眼 像高 27.9〜32.0cm 四駆ともに、それぞれヒノキの一材から彫出し、内刳りは施さない。 女神坐像・・・衣文はほとんど省略する。頭部の抑揚や面相にみる穏やかさなどから平安時代後期の作とみられる。 首を傾げる男神立像・・・細長い目など個性的で表情豊かな像。脚部の表現や個性豊かな面貌は、神像にありがちな省略された表現とは一線を画するものがあり、制作は鎌倉時代と推測される。 目をつむる男神立像・・・作風の近似から首を傾げる男神立像と同一作者の手になるとみられる。姿態はほぼ同じであるが、本像は閉目して幾分上向きかげんとなっている。 顎髭をたくわえた男神立像・・・両肩より先を欠失するため造立姿勢が強調されている。先の二駆の男神像よりひとまわり小さく、作者は異なるものの、やはり鎌倉時代の制作とみられる。 高月町教育委員会 社頭石碑 |