創立は雄略3年浅井姫を祭る小祠が出来、次ぎに天智天皇の志賀宮創建時に市杵島姫を祀り、 更に聖武天皇がこの神社に参拝し、社前に天忍穂耳命・大己貴命の両社を創建したと云う。 ご神体は竹生島そのもの。 |
都久夫須麻神社 国宝 都久夫須麻神社本殿の説明 本殿は、桁行五間梁間四間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。 慶長7年(1602)の豊臣秀頼より(一部不詳)に京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。 両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されでいます。内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。 折上格天井は菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色面で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。 社頭掲示板 |
都久夫須麻神社 総国風土記に雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が出来たのが始まりであるとしている。縁起によれば神亀元年天照大神の神託により当竹生島に市杵島姫命が祀られ、天平3年には聖武天皇が参拝され神殿を新築し、社前に天忍穂耳命、大己貴命を祀り、天平宝字8年藤原仲麻呂の反乱の際当社の神護により治乱したので年号を天平神護と改め、祭神に従5位の神位が授けられたと記されている。平安期に入って神宮寺たる宝厳寺が島内に建立された。それ以後天台の僧がたびたび参拝するに及んで「辨智」「辨財」の利益を受け辨才天信仰が隆んになった。寿永2年平経正が当社の拝殿で仙童の琵琶で秘曲を弾じたことが平家物語や源平盛衰記に出ている。貞永元年、享徳4年、更らに永禄元年と火災に遭っているがいづれも再建され、特に慶長7年豊臣秀頼は片桐旦元を普請奉行として伏見桃山御殿の一部を移し造営させたものが現社殿である。明治4年郷社に列し、同32年県社に加列し本殿は国宝に指定された。昭和5年境内地、社有地一帯は史跡名勝地に指定された。 滋賀県神社庁 |
文化財 国宝 本殿(附 棟札1枚)(建造物) 安土桃山時代。解説は「境内」の節を参照。明治32年4月5日、当時の古社寺保存法に基づき、特別保護建造物に指定、昭和28年3月31日、文化財保護法に基づく国宝に指定。同日付けで「附」指定の棟札を追加指定。 長浜市指定文化財 石灯籠(工芸品) - 南北朝時代。昭和48年7月18日指定 |
国宝 都久夫須麻神社本殿の説明 本殿は、桁行五間梁間四間の入母屋造の檜皮葺、前後に軒唐破風をつけ、周囲に庇をめぐらした建築物です。 慶長7年(1602)の豊臣秀頼よる復興の際に、元の本殿の外廻りに京都から移した建物を入れ込んだ特殊な構造です。 両開き桟唐戸、壁、内法長押上には、菊や牡丹等の極彩色の彫刻が施されています。内部の柱・長押等は梨子地で蒔絵が施されています。 折上格天井は、菊・松・梅・桜・桃・楓等の金地著色画で、襖の草花図とともに桃山時代後期の日本画壇の中心であった狩野光信の筆と伝えられています。 社頭掲示板 |
都久夫須麻神社 つくぶすまじんじや 滋賀県東浅井郡びわ町。旧県社。琵琶湖の竹生島にある社で、竹生島神社とも、竹生島明神とも呼ぶ。伊吹山の多多美比古の神と力比ぺをして、浅井岡の浅井姫命は竹生島を造成して逃がれ、ここに鎮まったという伝説が、『色葉字類抄』などに見える。『延喜式神名帳』に小社に列しているが、湖中に浮かぶ島は古くから聖なる島として女神を鎮祭したものであろう。中世には比叡山の影響下に神仏習合が進み、本地を弁才天とし、厳島・江島神社とならんで日本三弁天の一となった。祭神は浅井姫命のほか、市杵島姫命・宇賀御魂命を祀る。社殿は重要文化財である。豊臣秀頼の寄進により、慶長年中(1596-1615)秀吉の伏見城の建物を移築した。桧皮葺の入母屋造で、方三間の母屋は移築のもの、周囲の庇と向拝は永禄10年(1567)の建物、壁面の唐草風の彫刻や蟇股は神殿にふさわしく改築時に改めたものである。いずれも極彩色を施し、豪壮華麗な社殿で、俗に日ぐらし御殿と呼ぴ、桃山時代の形式をとどめている。島には旧神宮寺宝厳寺(竹生島観音堂)があり、唐門は京都の豊国廟のものを移した。この点から社殿も豊国廟の移築とする説もある。例祭6月15日。蓮華会という。前日神興渡御して頭人の家の仮屋に至り、15日新たに天女像(弁天)を神輿に迎えて乗船、舞楽・頭人・警固の船が数多く従って巡行する。蓮華の装飾が美しく、祭の名となった。 神社辞典 |
都久夫須麻神社 都久夫須麻は仮字也〇祭神宇賀御魂神、(與地志)○竹生島(湖中の一島也)に在す、今は竹生島明神、また辮才天と称す、 考証、所祭市杵島姫命、」縁記略、天照大神分身と云り、』惣國風土記残欠、都久夫須麻神社、圭田百五十六束三毛田四字田、雄略天皇3年己亥2月、始行神禮奉圭田、本朝之勝地、不可比類除島者也、四時之変景、斑工不可及、文人不可記者歟、』改暦雑事記に、聖武天皇天平3年、竹生島神顯焉、云々、』色葉字類抄に、昔淺井姫命、帝王編年記巻十に、霜速比古命之男多々美比古命、是謂夷服ノ岳ノ神也、女比依志比女命、是夷服岳神之姉、在於久恵峰也、次淺井比当ス、是夷服神之姪、在於淺井岡也、是夷服岳與淺弁岳、相競長高、浅井岡一夜増高、夷服怒叛刀劒殺浅井此売之頸、随江中而成江島、名竹生島其頸乎、 神位 色葉字類抄、竹生島、此島坐神依中臣奏上、奉授從五位上勲八等 雑事 三代實録、元慶3年3月2日壬辰、近江國言、木連理生筑夫島神社前、 神社覈録 |
郷社 都久夫須麻神社 祭神 淺井姫命 一説神名帳考証には市杵島姫命を祀るといひ、縁起略には天照大神分身といひ、與地志賂及神社覈録には宇賀御魂命なりといへり、又荒木田氏系図には天児屋根命八世孫久志宇賀主命とす、創祀年代詳ならず、惣国風土記残欠には、雄略天皇3年始めて神礼を行ふとあり、聖武天皇天平3年竹生島神現はれ給ひ(改暦雑事記)同年行幸あり、本殿を改築し、天忍穂耳命、大己貴命二祠を創め給ふ(社記)、淳仁天皇天平宝宇8年9月、藤原仲麿反し、官軍を近江高島郡に拒ぐ、官軍敗れ、扁舟に乗じて湖に浮んで逃る、大将軍涼大竹生島に向つて祈誓して曰く、普天の下王土に非るはなし、今名山大川必ず神ありて王土を守護す、彼の竹生島の神は霊ありと聞く、乞ふ神力を発して皇位を助け給へと、言未だ了らざるに大風起り、仲麿の舟を吹きて高島の浜に著かしめ、仍て仲麿を誅す(元亨釈書)之によりて称徳天皇天平神護元年從五位上勲八等を授け奉る、(帝王編年記色葉字類鈔)、陽成天皇元慶3年2月2日近江國言す、木連理筑夫島神社前に生ずと(三代實録扶桑略記)、醍醐天皇昌泰3年10月宇多怯王御幸あり(H本紀略)、三間の本殿を改めて七間となし給ひ、常燈料及勅旨田三町を奉り給ふ、今の本殿は伏見桃山日幕御殿なりしを、慶長8年豊臣秀頼公普請奉行片桐市正且元をして移修せしめられしものなり、徳川幕府また本社を崇敬し、社領三百石の御朱印地を寄せられたり、明治9年10月郷社に列し、同18年内務省より保存金参百圓下附せられ、同32年本殿を特別保護建造物に指定せられたり、社殿は本殿、拝殿、神餞所、社務所、水屋、制札場等壮麗を極め、境内地凡593坪(官有地第一種)にして、有名なる琵琶湖中の一島竹生島の岸に在り、湖心深く紺碧の水を湛へたる所、奇岩怪石欝立して、古松老杉鬱蒼たる間に社殿並立す、遠くより之を望めぱ、其光景儀然として韓神威の尊を感せしめ、又境内よりの眺望は頗る絶佳にして、湖岸の諸郡悉く眼陣に入る、故に古来参拝する者尤も多し、御神体は神鏡なり、 明治神社誌料 |