桓武天皇延暦8年(789)2月参議橘朝臣奈良麿、詔旨により草野姫命をこの地に祀る。 |
上許曽神社 祭神 草野姫命 相殿神 大己貴命 事代主命 住吉大神 埴山大神 桓武天皇時代延暦8年(789)2月参議橘朝臣奈良麿公詔旨により草野姫命をこの地にお迎え申し上げ、上許曽の社と名付けられ文徳天皇仁寿元年正月 神位正6位上を授けらる。高倉天皇治承年中相殿に大己貴命・事代主命・住吉大神・埴山大神の4柱を祭祀し上許曽世代明神と称し奉れり 平治元年 源頼朝公武運長久を祈られる 正安3年 源宗満随神を寄付せらる 文保3年 勧進羽太夫狛犬一対を寄付せらる 嘉慶元年 藤原盛安等宮鐘を寄付せらる 元和5年 小堀遠江守社地山林宮普請の資を下付せらる 享保8年 神位正一位を授けらる 明治15年 郷社に加列 例祭日 4月10日 社頭石碑 |
上許曾神社 延喜式神明帳の近江国155座浅井郡14社に列し、桓武天皇延暦8年参議橘奈良麿公が詔旨により草野姫命を勧請し上許曽社と奉称した。此の地を草野の郷一に上草野の郷又は上許曽の庄或は草香の里とも称した。仁寿元年神位正六位を授けられる。治承年間に相殿に大己貴命、事代主命 住吉大神 埴山大神を奉斎、上許曽4代明神又は世代明神と呼んだこともあった。年暦は不詳であるが盛行朝臣盛国は当郷の拓殖を行い、平治元年源頼朝東国落の砌武運長久を祈願文治2年には祭資料を寄進している。正安3年黒田判官源頼満は随神を寄進し現存している。文保3年勧進羽太夫は駒犬を、嘉慶元年藤原盛安は宮鐘を、永正年間浅井亮政、元和5年小堀遠江守は定書を同9年には社地山林を寄進するなど官武の尊敬が篤かった。明治9年村社になり同15年郷社に昇格した。 滋賀県神社庁 |
上許曽神社 上は加美と訓べし、許曽は假字也、○祭神在所等詳ならず 神社覈録 |
郷社 上許曽神社 祭神 草野姫命 相殿 大己貴命 事代主神 住吉大神 埴山姫神 社記に拠れば本社の創建を以て、桓武天皇の延暦8年2月。橘朝臣奈良麿の勤請によると云へり、次いで文徳の仁壽元年正六位上に叙せられ、(文穂實録)、醍醐天皇延嘗の制小社に列す(延喜式)、配祀の四柱は、高倉天皇の治承年中に奉齋せしものなり、之れより武家の崇敬厚く、阿曾美盛行の社殿再建を始として、源穎朝の寄進などあり、更に室町時代に及びても藤原盛元、源宗満、浅井備前守等深く崇敬の誠を致せり、然れども戦国以来は諸侯戦争に忙はしく、社殿も荒廃に委せられしが、後水尾天皇の元和5年領主小堀遠江守社領を寄進して稍面目を改めたり、後ち明治に及び、9年10月村社に列し、次いで15年郷杜に昇格あり、社地草野は姉川の上流山地に位し、古へより草野庄とも、古曽(古曾は久佐の通音)庄ともいひしが、其名は蓋し此の社より起れるものならむ、境内坪敷812坪(官有地第一種)、及び、境外地四町二反四畝十九歩を有し、域内には古杉森をとして誠に神代の昔をしのばしむ、壮麗なる本殿、拝殿。社務所、神輿庫、制札場、石鳥居、及び数基の石灯篭あり。 神体の姫神は木像(御帯部以上)なれど、古くして大部朽損せり、相殿の神体も同じく木橡にして、彦神三体、姫神二体あり、宝物としては箸しきもの無きも、古文書十七点、曲玉三箇、彫刻品四種、土器、八箇、宮鐘一口、武器十四点等とす、因に配す、当郡川道村道神社の伝に、当社旧号は神社といふ、神社はカミコソにて式内上許曾神社なりとて、神々の説を唱ふるも明証なし。 明治神社誌料 |