|
集落よりやや離れている田中の社。 式社であるとの表示はない。 |
|
平野神社 創祀年代不詳。古く牛頭天王社と称し、天正年間代官木下半助、関名右平治、日下辺善輔等が尊崇したと伝えられ、現に木下半助寄贈と銘した鍔口が残っている。明治9年村社に列した。 滋賀県神社庁 |
|
郷社 平野神社 祭神 大鶴鶉命 猿田彦大神 当社名を平野と称するに就きて説をなす者あり、曰く当社もと摂津平野社を遷せるもの、故に平野と称す、平野社は仁徳天皇を祀れるものなりと、又曰く、平野は比良なり、誤つて平野と称すと、比良明神は猿田彦大神なり、社記によれば、創建は天武天皇白鳳3年正月にかゝるといふ、当時大鷦鷯命を祀り奉る(明細帳)、社伝の一説によれれば、当社創祀年代詳ならず、されども滋賀郡比良山に在りて、猿田彦大神を祀れりと、仁明天皇承和午甲、伝燈大法師位静安律師比良山に最勝寺を草創するや、当神を以て護法の神とす、貞観9年6月傅燈大法師位賢信最勝寺を官寺に奏請す、時に当社を現地の付近岡山に遷し、社殿を造修し、寺領を割きて神領に附す、村上天皇天徳年中大内に蹴鞠の事あり、当祭神猿田彦大神を崇めて鞠の精霊となし、精大明神と號し、蹴鞠の御曾ある毎に奉幣ありき、後大納言藤原歳道即当社の霊を分ちて、京都西洞院に創祀すと、降って安徳後島羽の朝壽永、元暦の乱に遭ひ社運衰頽す、土御門天皇承元2年鞠道の臣飛鳥井雅経、其神宝神器を当社に返還す、是れより飛鳥井家歴世社参の事あり、和歌及祭資料を納むるを例とす。四條天皇嘉禎元年2月從二位藤原宗隆、摂津国難波夕陽岳なる平野宮(祭神大鶴鶴命)を合祀す、此後比良明神を改めて平野明神となす、後柏原天皇永正11年3月、近江守佐々木高頼社殿造営の事あり、後奈良天皇享禄3年正月彌正少弼佐々木定頼社殿修理す、同天皇天文7年延暦寺僧徒比良山最勝寺を焼き、当社の社領を掠収せんとす、佐々木定頼令して之を停止す、正親町天皇元亀2年兵乱に際し社領を失ひ、社殿亦頽廃す、依って天正元年氏子等往還の道傍に新社地を定め、同2年2月社殿を営み、旧社地より遷し祀る〔社伝)一説、明細帳によれば、猿田彦大神はもと山域京都桂宮に在りしを、皇極天皇の御宇当国滋賀郡平尾嶽に遷し祀り、封戸数千を寄せられ、朝廷の崇敬も淺からず、鎌倉幕府開けてよりは其の崇敬亦深し、頼家将軍以来殊に尊崇を加へられしが、応仁以後数度の兵乱に焼亡せしを、天正年中当社平野神社に合祀せしものなりといふ、二説全く其傅を異にし、是非孰れとも定かならず、猶考ふべし、明治9年10月村社に定まり、同16年6月郷社に列す、境内640坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、社務所等の建物あり、社地は湖畔に位し、後は逢坂山の翠黛を負ひ、秀麗の風光殊に賞すべし、建武の昔花山院大納言叡山より笠量に向ふとて「思ふ事なくてぞ見ましほのぐと有明の月の志賀の浦波」と詠まれしも此の邊なるべし、所蔵の宝物には後二條院御宸筆精大明神の神号、後二條院御製一首「おもへどもいはでしのぶのすり衣心の中にみだれぬむ哉」難波左中將藤原宗尚卿染筆の歌一首「道守る神のめぐみもいくよへて雨ふりそゝぐ松本の宮」等あり、御碑体は木座像一駆(猿田彦命)明治38年4月4日国宝に指定せらる。 明治神社誌料 |