集落外れの平地の社。式社であると表示されていない。仲哀天皇が越前へ行幸の途中、武内宿祢が祀る。 もと田川の麻曾田に鎭座しており、その地が岡本郷に存在していたので、式内岡本神社にあてる説もある。 岡本神社、比伎多理神社の二社の論社である。 |
鹿島神社由緒 祭神 武甕槌神 天児屋根神 齋主神 比売神 例祭日 4月18日 人皇第14代仲哀天皇越前の国角鹿へ御幸の途次、国家安全のため武内宿禰が常陸の国鹿島、香取両神宮より御祭神を勧請。 天智天皇9年中臣金連社殿を道営。 往古より田川の麻曽田山に御鎮座、その後同山の西8丁の地(留目)藤の森(現在地)に御遷座、大宇田川、伊部、山ノ前、留目、別所、須賀谷の田川流域六ヶ字を田川の荘と呼び、氏子約200戸の総鎮守として氏子と共に社運隆昌を極む。就中浅井氏三代及び豊臣、徳川家代々崇敬篤く、当神社を祈願社と定め、朱印領約八百石の献納あり。 旧来神主二人、神部六人にて奉仕。 明治15年9月15日旧社格郷社に列せらる。 社頭石碑 |
鹿嶋神社 仲哀天皇越前角鹿へ行幸の途次勅し給いて武内宿禰が勧請し、天智天皇9年右大臣中臣金運社殿を造営、降って神護景雲2年荘司公文社殿を再び造営した。武家の尊敬篤く建久4年源頼朝は社領を寄進し、鎌倉政所は禁制札を建てている。京極持清は社領300貫を寄進するとともに浅井氏小谷山に城を築くや産土神として代々祈願社として留目村の地五百石を社領として奉納する。元亀天正の戦火によって建造物旧記什物等悉く烏有に帰したが、豊臣秀吉神威を畏み、片桐東市正、木下半介の両人に命じて復旧せしめて天正19年朱印社領二百石を寄進し同20年には更に五十石を加え幣帛料を献納している。慶長7年徳川家康も社領二十石を奉じ、江戸城本丸造営役徒に際しては遠国の故をもって祝儀として参府に及ばずとの通牒をせしめている。文化3年九条摂政より白銀を献ぜられ祈願所として年々幣を奉られ、文政5年には仁孝天皇御撫物を下附せられるなど皇室の尊敬も篤かった。浅井氏縁りの豊臣秀吉の室淀君を始め、徳川秀忠の室、京極高次の室等母方の氏神として徳川氏は大巡見使派遣の際は幣帛を奉納している。旧来神主2人、神部6人奉仕の制が明治4年まで続いた。明治9年村社に列し同15年郷社に昇格同42年神饌幣帛料供進社に指定され、昭和51年神社本庁第1期神社振興対策神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
郷社 鹿島神社 祭神 武甕槌命 齋主命 天児屋根命 比売神 創立は仲哀天皇御宇、武内宿禰勅を奉じて勧請せし所なりと云ひ伝ふ、天智天皇9年中臣金連再建の挙ありしが、孝謙天皇神護景雲2年に至り、荘司公文(神職藤本家租)更に社殿を造営せり、後鳥羽天皇建久4年源頼朝社領を寄附し、鎌倉政所より禁制札を建てらる、京極佐々木両氏崇敬篤く、中にも京極持清は社領三百貫の地を寄進し、淺井亮政、久政、長政、三代祈願所として留目村の地を奉献せり、元来湖北に於ける有名の旧社なりしが、元亀、天正の際社運衰へ、姉川の合戦に社殿古記録悉く兵火に罹りて烏有に帰したり、豊臣秀吉深く本社を崇信し社殿を造営し、片桐東市正、木下半介両人を奉行として之を司らしむ、天正19年未印社領二百石を寄進し、同20年五十石を加へられ、慶長7年8月徳川家康社領二十石を寄せらる、徳川秀忠の室及京極高次の妻、共に淺井長政の女にして当社の産子なりしが故に、徳川氏代々崇敬篤く、將軍代替り毎に金若干の幣吊料を献ぜり、文化3年九條家より白銀若干を献り、爾後年々幣帛料を献らる、文政5年正月仁孝天皇より御撫物下付、長日の御祈祷ありたり、宝暦11年天災に由り社殿焼失せしを、後現今の社殿を再建せり、明治9年10月村社に列し、同15年8月郷社に列せらる、社殿は本殿、拝殿、水舎、社務所等を備ふ、境内地凡1068坪(官有地第一種)平地なれども鬱蒼たる森林を有し、自然神威の厳なるを示す、宝物には建久4年鎌倉幕府の制札、源輯朝寄進の狛犬、淺井亮政、長政、及豊臣秀吉寄進の刀等あり。 明治神社誌料 |