もと丁野村内の岡山の麓の小字宮ノ尾という所に鎭座していた。 旧称を山王宮、山王権現、山王大権現などと称し、岡本神社と改称したのは明治5年のことである。 この地は浅井氏の発祥の地。 |
岡本神社由緒 当社は延喜式内神名帳所録 近江国浅井郡14座の一にして元岡山に鎮座せり、往古より大門の地に祭供田と称する祭田あり。是京極持清の奉納する所にして免除地なり。 嘉吉2年(1442)三条大納言公網卿丁野に配流の際、当社に祈請する所ありて拝殿一棟献納せらる、又舞楽堂は藤原公の寄進なり。中古浅井氏代々の祈願所なり。 天正元年(1572)織田氏兵乱の際朝倉義景勢(堀甚助、久保十郎、王泉坊等)此所岡山に立籠る。 茲に戦利あらず、拝殿一棟を残し社殿その他古文書等悉く焼失す。同年12月神官脇坂和泉尉霊夢を感じ、現在の地に再建遷座す。豊臣氏よりも祭供田奉納あり、徳川氏検地の際も免除地となれり。明治9年(1876)村社に列す。 主祭神 素盞鳴銘 大山咋命 浅井比当ス 合祀神 応神天皇(元八幡神社) 天児屋根命(元天神社) 境内社 稲荷神社(宇迦之御魂神) 境内地 観音堂(観世音菩薩) 地蔵堂(地蔵菩薩) 例祭日 4月14日 社頭石碑 |
岡本神社 延喜式神名帳の「近江国浅井郡十四座の一座」の論社であり、岡山に鎮座されていた。嘉永年間に三条公綱卿丁野村に配流されし際、本社に祈願をして拝殿を建立されたと伝えている。小谷城主浅井氏も代々祈願所としたが、織田氏の兵乱により拝殿を残しその他の社殿及び旧記等は烏有に帰した。しかし後年これを復元にするに当り岡山の地から現在の地に移して再建された。豊臣氏は祭供田を寄進し、承応3年の検地帳には高除地と記されている。明治9年村社に列せられた。 滋賀県神社庁 |
木造十一面観音坐像 長浜市指定文化財「木造十一面観音坐像(岡本神社)」 ・指定日:昭和55年3月15日指定 ・所在地:長浜市小谷丁野町 戦国大名浅井氏の初代、亮政(すけまさ)の出自の地と伝える、小谷丁野町(おだにようのちょう)の岡本神社観音堂に伝来する十一面観音坐像。平安時代後期、12世紀の作です。 「須(すべから)く白栴檀(びゃくせんだん)を用いて観世音像を作るべし。身長一尺三寸、十一頭を作れ(以下略)」 これは、十一面観音像の造り方を示した『十一面観音神呪(しんじゅ)経』(漢訳:阿地瞿多=あじくた)の一説です。 古来、仏像は、作者が勝手に創作するのではなく、「儀軌(ぎき)」や「経典」に説かれる規則(約束事)に基づいて造像されてきました。十一面観音の形姿を説く儀軌は数種伝わり、一般的には十一面観音の腕は2本(まれに4本)で表されますが、岡本神社の像は6本の腕を持ったとても珍しい像です。また、平安時代に造られた十一面観音像は、そのほとんどが立像で表されますが、座った姿を示す本像は貴重な遺例といえます(他に平安期の十一面観音坐像が伝わるのは、県内では甲賀市の櫟野寺(らくやじ)本尊がほぼ唯一)。現在はその存在が確認されていませんが、本像は、密教系の特殊な図像をもとに、造像されたものではないかと考えられています。 『広報ながはま』平成24年8月15日号 |
岡本神社 岡本は乎加毛止と訓べし、和名抄、(郷名部)岡本、(假字上の如し)○祭神素戔鳴尊O在所詳ならず 惣國風土記残欠、岡本神社、圭田三十五束三毛田、所祭素戔鳴尊也、雄略天皇3年己亥6月、始加神礼』考証に、北郷有岡高天神と云り、與地志所見なし、 類社 仙城国愛宕郡鴨岡本神社、摂津国武庫郡、伊勢國河曲郡、越前國今立郡岡太神社、(各一社) 神社覈録 |