虎御前山の尾根にあり、見晴らしが良い。 「矢合」と音が通じる八相(やあい)山に鎭座し、旧称八相大明神と称した。 元亀元年(1570)までは古来の神殿があつた |
由緒 当神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大明神と云へり、鎮座するこの一帯の山を八相山と云ふ。八相を“やわい”と訓読す。けだし当神社には往古より弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ひ多くの矢が行き合うことにより、矢合の文字を以て社名とせり。 祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。この地古くより水利の便意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいふ世々開長者の“せせらぎ”は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。天正年間信長の小谷城攻撃の際、戦火に遇い多くの古文書逸散したるも、現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
矢合神社 「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とある延喜式内社の論社で、古くから八相さんと呼ばれる。古記によれば寛文年間まで弓矢の神事が伝えられ正月10日に盛んに矢を射たことにより、矢のゆき交う形の矢合いと、八相の訓読ヤアイとが交錯して現社名が生ずるに至った。元亀天正年間まで元鳥居山という所に大鳥居、山麓に道成寺という神宮寺があったが、信長の兵火に遭い烏有に帰した。その後天明2年現社殿を再建した。現在は神社一帯の山を虎御前山と呼び保安林に指定されている。明治9年村社に列し同41年神饌幣帛料供進社に指定された。当地は古くから水利に恵まれなかったので主祭神を始め境内社の岩上神社祭神浅井姫命、更らには世々開長者の伝説、清水清介翁の祭祀など水利にかゝわる祭儀が多い。 滋賀県神社庁 |
矢合神社 式内社。平安時代の法典「延喜式」に「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とあり、古くは八相社または八相大明神と称していたと考えられる。矢合神社が鎮座する虎御前山南尾根は、別に「八相山」と呼ばれ、戦国時代には織田信長が浅井氏の居城・小谷城攻略に備え砦を築いた。神社の主祭神は、水辺を司る神・葦那陀迦神である。この地は古から水利に恵まれず、境内社である岩上神社のいわれや世々開長者の伝説、義人清介碑など、水にまつわる歴史や祭儀が多く、人々の水を獲得するための苦労とともに、水に対する感謝の心を偲ぷことがでぎる。 社頭掲示板 |
矢合神社由緒 延喜式所載社 祭神 葦那陀迦神 当神杜は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大明神と伝え鎮座するこの一帯の山を八相山という。八相を「やはひ」と訓読けだし当神社には往古弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行い多くの矢が行き会うことより矢合の文字を以て社名とせり。 祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給う神なり。この地は古くより水利の便意の如くならざりしかば此の神を祭る。世にいう世々開長者の「せならぎ」は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。天正年間宣長の小谷城攻撃の際戦禍に遭い多くの古文書散逸したるも現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。 社頭石碑 |
矢合神社 矢合は夜安比と訓べし○祭神詳ならず○田川荘中野村八相大明神是歟 考証云、有八相山、或作八井仙、今在門間荘東淺井村、俗称八寵社是同神歟と云るはいかが、八相山は東淺井村に在と云にや、」與地志、八相大明神中野村にあり、相伝往古は甚大社なるよし云りといへり、されど此社を神名帳矢合神社とはいはず、猶考ふべし 神社覈録 |