創設は「敏達天皇3年以前」とある。 尾上の集落の北のはしに鎮座し、背後は琵琶湖になつている。 |
式内社論争 尾上、東尾上、海老江 三社間の式社論争は激しかった。 「その後も式内社論争はつづいたやうで、大正14年発行の『特選神名牒』にも「(尾上、東尾上、海老江の)三村共ニ尚今式社を争論して止まず」とある。つづいて昭和2年発行の『東淺井郡志』に東尾上の小江神社を式内社とする南部晋氏の『式内小江神社所在私考』が「その論傾聴に値す」るとして紹介されたため、尾上の方から強い異論が出て、昭和3年には「郡内平和維持ノ爲メ」に関係部分が削除されるといふ事件がおきた。當時の新聞(「滋賀民報」昭和3年11月3日號)には「大変な誤謬を発見、配本後の淺井郡誌、関係区民の激憤をかひ配本を切り取る大失態」と報じられてゐる。この一連の式内社論争は學問上の争ひといふよりは、住民感情が大ぎく作用した争ひと見るべきだらう。 式内社調査報告 |
小江神社 創祀年代不詳であるが、式内社の論社である。垂仁天皇の皇女倭姫命勅命を奉じ野州郡江頭の地を舟出され湖上を北に向はれ小江浦に上陸し給うて当社で休息された。そのとき里人踊を奉納して御心を慰めたと伝説されている。敏達天皇圭田を下賜され給ひ爾来神饌田として宮守長老8人衆が耕作をして存続している。琵琶湖を隔てゝ神領山を有している。明治2年神祇伯王家から社額と神鏡を賜わり同5年には犬上県からも社額と本堂鍵が奉納された。同9年村社に列せられ同41年に神饌幣帛料供進社に指定された。当社は元亀年間織田信長の兵火によって多くの記録や社宝を失っているが天正年間佐々木、京極の一族が篤く尊敬し浅見対馬守が小江城に居城して復興に努めた。 滋賀県神社庁 |
小江神社 小江は假字也○祭神事代主命O在所詳ならず 惣国風土記残欠、小江神社、圭田三十一束三字田、所祭事代主命也、敏達天皇3年、始行神禮加圭田、 類社 (欠く) 神社覈録 |