用明天皇2年7月、物部守屋大連は河内において蘇我馬子等と戦つて敗れた。その時、家臣の漆部巨坂という者が守屋に代つて激闘して戦死した。その間に守屋は巨坂の弟の小坂という者を伴つて、守屋の領地であつた当田根の地にひそかにやつて来て、草庵を結んで世をのがれて定住した。そして自らを萩生翁と称し、土地の人々に読み書きや農業を教えるなど恩恵を施したので、守屋の死後、土地の人々はその遺骸を小谷山東峡の巌窟に葬り、萩野大明神と称し崇敬した。これが当社のはじまりであるという。 特殊神事として、神迎え、神送りの神事がある。現社地の後方の山腹に巨大な磐座がある。ここで春、初午の日に、神職と宮総代がヒモロギに神を迎え、12月の初めに、ヒモロギで神を送る神事が行なわれている。古代祭祀の名ごりとされている。 |
由緒 創立年月不詳当大連守屋大臣を祭鎮する所は、用明天皇2年、大連義蘇我馬子等と稲城に戦ふて利を失ひ、迹見赤祷の為に射殺せらるる者は、則ちその臣漆部巨阪にして、大臣は弟小阪伴従して其領内、即ちその当地に潜匿し大臣名を隠して萩生翁と自稱す、遺命に依て大臣を小谷東峡の巌窟に葬す、土人大臣を尊崇して爰に祭鎮す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
波久奴神社 祭神 高皇産霊神 相殿 物部守屋大連公 当社御創建の年月は未詳なれど、大和時代後半(6ー7世紀)と伝えられる。 当時朝廷は大和にあり、大連物部守屋と大臣蘇我馬子が相並び政を執り行う。しかれど仏教の伝承と皇嗣問題をめぐり両氏相対立、争いの末、蘇我臣が実権を握るところとなり、守屋大連公は漆部小坂を随従に領内田根之荘に落ちられ本宮の岩屋に潜匿の身となられる。 ややありて後、欅林に萩の生い茂るこの地に庵を構え萩生翁と自称し、随従と茲に住まわれる。里人慕い来たるや、翁、書を教え水を治めて農業を興す等、その生活に思いをかけられる。村人敬慕して止まず遺命を拝して、大連公を本宮の岩屋に葬る。 後、庵の辺りに廟を建て大連公を尊崇してここに鎮祭、春夏秋冬祀怠りなく勤め奉る 1.祭神 高皇産霊神 明治34年4月17日許可 1.社格 明治14年2月1日 郷社加列 社頭石碑 |
波久奴神社 延喜式内社であるが創祀の年代は詳かでない。社伝によると、用明天皇2年物部大連守屋は蘇我馬子と戦い、史実に反し漆部小坂を伴従させて領地である当地の北野の邑の馬淵某に名を秘して潜伏した。しかし蘇我氏の追跡厳しく、同じ年の10月小谷山東峡の嶽窟に移られ翌年の初午まで隠遁された。その後高畑の欅林の萩の茂る地に草庵を建て萩生翁と称し里人に知識を授け善政を施した後この地で歿せられた。民衆はその遺徳を偲びこの地に一祠を建て正一位萩野大明神と崇めるに至ったと伝える。明治14年郷社に列せられ同34年物部守屋大連を合祀して社殿を整備し、同41年神饌幣帛料供進指定となった。 滋賀県神社庁 |
物部守屋大連公由来 古代大和朝廷の時代、執政者として二大勢力であった物部氏と蘇我氏は、欽明天皇538年(552年の説有り)仏教伝来とともに拝仏・崇仏に分かれ真っ向から対立した 敏達天皇575年に大連に任ぜられた物部守屋公も、大臣に任ぜられた蘇我馬子と、用明天皇の時代も皇嗣争いも内包された激しい対立を続けた。 時に587年4月用明帝が崩ぜられると蘇我馬子は物都守屋討征軍を起こし、守屋公は河内の渋河にて戦うも利を失い、迹見赤誘に射落とされたとあるが、守屋公は漆部小阪を伴って物部氏の領地である田根之荘に潜み萩生翁と自称し隠棲されたと伝えられている、本宮の磐座は廟所である。 社頭掲示板 |
波久奴神社 波久奴は假字也O祭神在所等詳ならず 考証に、今云波幾乃明神」與地志、 田根荘高畑邑萩野大明神は、荘内十五村惣社也ど云り、 神社覈録 |
郷社 久波奴神社 祭神 高皇産霊尊 物部守屋大連 創立は崇神天皇7年大田田根子命の祭る所なり、三代実録に、清和天皇貞観18年8月2日、近江國高結神に從五位下を奉授せられたること見えたり、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、後中御門天皇享保元年7月正一位に進み給ふ(社記)、其守屋大連を祭るにつき、本社縁起に一條の物語あり、即ち「守屋連は厩戸皇子に攻められ、既に危かりしを、家臣漆部巨坂の忠死によりて僅に死を免かれ、巨坂の弟小坂と共に逃れて此の地に来り隠れ、萩生翁と称し、窃に世の治乱を窺ひたるに、後推古天望即位せられ、厩戸皇子摂政となり、世を治め民を安じ給ふ由を伝聞し、其臣小坂をして都に出で其眞否を窺はしむ、小坂乞吟となり、飢に迫れるが如く装ひて太子に謁したり、是れ世に太子飢人問答あることを伝へ、随つて其飢人は達磨大師なりとの説起る所以なり、翁百歳の壽を保ち、厩戸太子の御子山背王及蘇我入鹿等の滅亡を経て、世の変遷を観じ、今は憚る所なしとて、里人に告げて曰く、我は先朝の大連物部守屋なり、世を逃れ此の地に隠れて今日に至る、我を此地に祭らば、國に水旱の憂なく、安事永久なること御水の尽きざるが如くなるべしと、遺言して逝けり、是に於て土人小祠を建て萩野明神と称して祀リたりとぞ、中世萩野明神又波幾の明神と称し、田根の庄十五村の産土神たリ、明治維新の後郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、神輿庫、社務所、水含等を備ふ、境内地2008坪(官有地第一種)巨杉老欅等鬱蒼として繁茂し、縣下有名の勝地たり、又郡内小谷官山の内字本宮谷に、飛地境内七反八畝歩あり、此の地は守屋大連隠遁したる厳窟なりと云ひ伝ふるあり、祭神の縁故あるを以て此地を明治39年11月内務、農商務両大臣より飛地境内として神社へ交村せられたり。 明治神社誌料 |