中世にも一貫して湯次大明神ととなえて来た。 現在地の少し南に湯次宮と称する小字名があり、もとはこの湯次宮に鎭座していたことがうかがわれる。 |
湯次神社 安康天皇元年勧請、建御名方命、社領圭田29束3毛田、雄略天皇2年勧請、瀬織津比当ス社領圭田34束3毛を奉づ、神家、巫戸ありと日本総国風土記にある。式内社であって湯次宮と称し浅井郡13郷の総社として尊信篤かったが、時代の変遷により現在は1村の産土神となった。これより先天亀天正の兵火で焼失した本宮仮建立に当り、天正3年13郷よりの取集米石の送り状が社蔵されている。天保3年脇江城主栗原新兵衛が村中へ名字を贈った証文の宛名に湯次郷とある。慶長7年社地6反7畝13歩が除地となり、寛永21年新検地で古来の社地田畑6反3畝25歩が年貢地となる。寛政6年には神祗官統領神祇伯王から湯次大明神の額を賜り白川殿からは額字の添状が送られている。明治9年村社に列し同41年神饌幣帛料供進指定となった。 滋賀県神社庁 |
湯次神社 湯次の一帯は上代に秦氏の人々が移住し勢力を張っていた土地である。このことは湯次の近くの大井・宮部に秦氏が氏神として奉祀した大酒神社が所在することからも明らかである。湯次・宮部・大井など付近一帯に移住し村落を成していた秦氏の人々が、総氏神である弓月(ゆつき)君(融通(ゆつき)王)を祖神として祀ったのが湯次神社の始まりと思われる。「ユツキ」が「ユスキ」に変化したのは音便によると考えられる。たとえば「ツギツギ」というべきところを『源氏物語』若菜巻には「スキスキ」と書かれている。 谷川健一編『日本の神々』 |