湯次神社は、淺井郡の地に分住した奏人が弓月君を祖神としてまつつたもの。 古くより湯次荘の総社であり、湯次神社と称していたが、中世に叡山領に入つたため領主の祖神である日吉の神を合齋し、ついには日吉社と称するようになつた。 明治になり、当社は延喜式内社湯次神社であるという事になり、明治3年10月13日には犬上縣民政所の指示で式内社の標示杭が建てられた。 |
由緒 夫れ式内湯次神社は延喜式神明帳近江百五十五座の内に列し、安康天皇元年御名方命を御祭神とし古へよりの名社なり。而して往古より湯次之庄数十ケ村の総社にて神威赫として祟敬厚く社殿も頗る裝觀を極めたり、しかるに姉川の合戦を初め幾度かの水害に御神殿、神地も御受難されし為に明治30年9月当地に御遷宮になった。その後神域には天満宮、権現宮、観音寺、小彦名神社、薬師如来を奉り、天下泰平、五穀成就、子々孫々、富貴繁栄の社として今日に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
湯次神社 日本総国風土記第18浅井郡浅筒に、湯須神社圭田29束、安康天皇元年に始めて御名賀多命を祭る、雄略天皇2年に瀬織津比唐祭るとの所載がある。元禄年中社寺取調書上帳によれば湯次の荘の総社で南は今荘、西は細江、北は三川等近郷併せて48村を擁していたが、天明年間から漸次減少し現在は4個字の祭祀となっている。姉川合戦の戦火によって社殿その他烏有に帰したが、逐次復興した。その後明治14年に火災、同17年には大洪水、降って同24年に震災、同48年大洪水堤防決壊等の災害が相ついたので、姉川五百川の合流点近くに在った社殿を現地点の高地に明治30年移遷した。前後して郷内に古くより鎮座されていた前記境内社をもこの神域に移したのである。明治9年村社に列し、同15年郷社に昇格し神饌幣帛料供進指定となる。 滋賀県神社庁 |
湯次神社 湯次は由須木と訓べし、和名抄、(郷名部)湯次、(假字上の如し)、○祭神在所等詳ならず 惣國風土記残欠、湯次神社、圭田二十九束三毛田、安康6年甲午12月、始所祭御名賀多也、また、湯須神斑社、圭田三十四束三字田、推古天皇2年、始所祭瀬織津比当轣A有神家巫戸等』、與地志、湯次荘大路村日吉社、湯次荘惣社也、また湯次村湯次社と云り、猶考べし、 神社覈録 |
郷社 湯次神社 祭神 御名賀多命 一説総國風土記には瀬織津姫を祀るといひ。又近江風土記には御名方神瀬繊津比売神二座を祀るといふ、猶同書には湯須神社と記したり、是れ湯次を誤れるものか(次と須草体相似たればなり)、或は湯須木と書ける木を脱せしものなるべし、創祀は安康天皇元年12月なりといふ(社記)(総国風土記には推古天皇2年始所祭と記せり)醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、近郷の大社にして、氏子の多き事当初数十村に亙れり、然るに其の中平塚尊勝寺西野辺の諸村先づ分離して平野庄と号し。次に馬場、南方、東西、小澤、中寺、十里等の諸村亦分れて新庄と称す、更に後陽成天皇慶長年間には田村富田以下数村分離して大路附近十一ケ村となり、霊元天皇寛文3年社殿造営の時は八ヶ村に滅少し、後更に分れて、今は大路、三田、内保、宮部、禰宜田の四村に過ぎす、明治9年村社に列し、13年郷社に昇格す、境内1950坪(民有地第二種)、社殿は本殿、拝殿、其の他神餞所、社務所等あり、地姉川中流の平野に位置し、古木森々として鱒神威の厳なるを覚ゆ、一説神祇志料及他の一書には、湯次神社は湯次村に在りとして、説をなして曰く「今按ずるに、注進状に湯次神社と称するもの二所あり、一は大路村、一は湧次村なり、二所共往古より格別の社柄にて、國図には大賂村とし、與地志略には湯次村とす、故に定め難しといへり、されど大路村にては、往古は大社にて数十村の総社なり、古神鏡に湯次神社と鋳付けたるがあり、是れ確証なりといへるのみ、他に証左なきのみならす、志略には、大路村日古社湯次の庄の総社なりと記して、式社なる事をいはず、湯次村なるは、湯次庄の内にて字湯次嶽に鎮座し。村民の所藏せる天正11年の古証文に、江州淺井郡湯次宮、又売主湯次宮甚左衡門云々とあり、又一通にも同じ様に記せるは、湯次村を古へ湯次宮と称せしにて、村とは云はざりしなり、さるは湯次神社の鎮座地なるによりて、殊に湯次宮といへりしなるべく、寛永21年の検地帳にも宮そへ等の地名あり、與地志略湯次社湯次村に在りとみえたるに拠る時は、湯次村の方証ありと聞ゆ云々」と。 明治神社誌料 |