塩津神社
しおつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】塩津神社 近江国 浅井郡鎮座

   【現社名】塩津神社
   【住所】滋賀県伊香郡西浅井町塩津浜547
       北緯35度30分56秒,東経136度10分6
   【祭神】塩土老翁神 (配祀)彦火火出見尊 豊玉姫尊
   【例祭】4月18日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】鎭座の年代不詳
       元亀年間兵火に合い衰微
       寛永年中伏見稻荷の分霊を勧請
       明治5年稻荷明神を境外に移し、塩津神社と称
       明治9年村社
       同17年郷社
       明治42年10月13日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「稻荷明神」「海北稻荷明神」と称していた
   【社殿】本殿檜皮葺流造
       手水舎・神輿庫・拝殿

   【境内社】琴平神社・愛宕神社・稲荷神社・川尻神

往古は淺井半郡の総社で国司の奉幣する所であった。海北宮と称され、寛永年間伏見稻荷の分霊を勧請して稻荷明神または海北稻荷明神とも称した。明治5年塩津神社と称するようになった。
往古この地に塩池あり。池は中古地震で枯渇。





塩津神社

主祭神 塩土老翁神
配祀神 彦火々出見尊 豊玉姫尊
由緒
当社創立の年代はつまびらかで無いが延喜式内社で既に神威顕著の古社たるを知る。古伝によれば上古この地の志波谷に塩池あり。ささやかな池ながら塩水間断なく湧出し、これを汲んで製塩し敢えて他からこれを求めず。たまたま意富々杼王この地を逍遙し塩池を見給い「小池の朝汐を製塩せんよりは何ぞ外海に塩を求めんや」と問い給う。一竈丁「吾等は代々遠祖塩土翁の遺訓を奉じ製塩し他に求めず」と答う。王これを深く感じ 不日里人を助け塩土翁を鎮祭せられたりと 即ち之が塩津神社であり 社名は地名に因み地名は祭神名に因むという 塩池は中古大地震のため埋没し朝汐も又出ず 製塩に用いた大釜は湖底に沈めたりと伝う この湖岸を大辛といい今も小字名として現存す
この地は嘗て西浅井郡に属し当社はその半郡の総社として広く崇敬せられた。社地の背後は鬱蒼とした塩土山の神林深く又社前は入り江の琵琶湖に面し四季の風光変化に富み 又湖上航行の要港として王朝時代以降文人武将の往来しばしばあり。又当社を崇敬せらる わけても和気仲世近江江呂介に任ぜられるや数度当社に参籠して霊示の随に誉田別神を境内に瀬織津姫神を境外地に奉祀された。
文和元年 足利高氏の子義詮 後光厳帝を奉じ当社に参籠し 幕を張り供奉の人々を■ったと云う。当地の塩津城主熊谷兵高 熊谷治左右衛門直久 熊谷直純等いずれも当社を産土神として常に崇敬した 元亀元年火災にかかり殿舎悉く烏有に帰し現在の社伝は元禄初期の作なり 明治17年郷社に列す なお当社中古「海北の宮」の別称があった
例 祭 4月18日
 例祭当日氏子青年団奉仕の神輿渡御あり
御神徳
 主 神 産業開発 交通安全
 配祀神 安産守護
宮司 熊谷文三 敬書

社頭石碑



塩津神社

滋賀県指定有形文化財
塩津神社本殿
所在地 伊香郡西浅井町大字塩津浜
指定年月日 平成11年3月31日
塩津神社は、近くの池の水で塩をつくつていた人たちが、塩土老翁神を祀ったのが始まりと伝えられる。江戸時代の中期には伏見稲荷を勧請し稲荷大明神と称していたが、明治の初期に社名を塩津神社に復した。
本殿は、棟札などから元禄7年(1694)に長浜の大工藤岡甚兵衛光守により建立された小規模な一間社流造で、屋根はこけら葺とし、身舎の組物間と妻飾の小壁には植物、板支輪は雲(波)の精緻な彫刻が施されている。また正面は稲荷神の使いとされる狐の彫刻を用いている。
塩津神社本殿は、湖北地方で活躍した藤岡家の代表的な神社建築で、良質の檜材を用い精緻な彫刻を多用した斬新な意匠とし、材料加工ともに極めて優れている。また藤岡家が関係した建造物で、建立年代が知られる最も古いものとしても貴重である。
平成12年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板




塩津神社

当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社を崇敬せられたのである。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。嘉永年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。明治5年稲荷の神霊を境外地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。延喜式内未定社。同43年神饌幣帛料供進神社に指定された。尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった。

滋賀県神社庁



塩津神杜

塩津ば之保津と訓べし、和名抄(郷名部)塩津(假字上の如し)〇祭神在所等詳ならず○下に下塩津神社もあり
與地志、当郡の校正甚だ麓漏也、塩津郷神社を載せず、故知れず猶糾すべし、

神社覈録



郷社 塩津神社

祭神 塩筒老翁 配神 彦火々出見命 豊玉姫命 塩津の祠は又海北の宮とも称し、創建の年は實に神功皇后摂政の御時にあり、応神天皇稚くおはせし時、適適江北を逍遥して、此の地に至り、其の地名を尋ねられき、時に淺津刀禰といふ者答へて曰く、神代の昔我が遠祖、塩筒翁、製塩及び舟楫の法を此の処にて行ひしが故に、塩筒と称せしが、更に北海の食塩を此虚より運輸するに及び、塩出と改め、遂に今の地名に訛りしなりと、天皇之れに感じ、刀禰を助けて社を起こし、塩筒の翁を祀られき、後ち小野道風、卜部宿禰と謀り、彦火々出見命及び豊玉姫命を配祀せられしなり、醍醐天皇延喜の制小社に列し、明治に及び9年10月村社に加列せられ、越えて17年郷杜に昇格あり、当社は湖水の北岸に位し、後方塩津山を負ひ、老樹鬱茂し、前方塩津灘に臨み、春花秋月は勿論、夏季の納涼、雪時の夜景共によろしく、竹生島大崎と合せて湖北の三景と称せらる、境内総て1143坪(官有地第一種)、社殿は本殿、幕屋、須屋、神庫、神供所、社務所などあり

明治神社誌料



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