山津照神社
やまつてるじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】山津照神社 近江国 坂田郡鎮座
          (旧地)青木神社

   【現社名】山津照神社
   【住所】滋賀県米原市能登瀬390
       北緯35度19分49秒,東経136度19分21秒
   【祭神】国常立尊
   【例祭】5月4日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天武天皇御宇奉幣
       天平神護元年(765)神封六戸
       仁寿元年(851)正月正六位『文徳実録』
       貞観8年(866)閏3月7日正四位下
       延長6年(928)5月二日正四位下
       暦応2年(1339)10月4日祈願
       文和3年(1354)6月後光嚴天皇祈願
       大永6年(1526)5月28日領主隆頼社領寄進
       明治14年2月1日郷社
       大正10年2月23日県社

   【関係氏族】息長氏
   【鎮座地】旧社殿は現社殿より南に約80m

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「青木梵天王」「青木宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・中門・手水舎・社務所・宝藏庫・祭器庫

   【境内社】青木神社・若宮八幡神社・春日社・北野社
   【境内図】 境内図

尾根の広大な社。
現在の社殿は明治15年に旧境内より移転新築に着手し、同18年完成遷宮されたものである。旧社殿は現社殿より南に約80mはなれた山すそにあり、現在青木神社がある。
両社の間に古墳があり、神功皇后の父君なる息長宿禰王の墳基という。


青木館

式内社山津照神社の別当職だつた青木氏の城、「善性寺」のある小尾根が本郭で、その南には通称「御殿」と呼ばれる一画がある。青木氏の実態は定かではないが、関東武者青木氏の流れをひくもので、佐々木南北諸士帳には「青木庄能登瀬往 佐々木浅井随氏青木筑後守」の名をみることができる。
平成8年10月 淡海文化

社頭掲示板



山津照神社古墳

滋賀県指定史跡 山津照神社古墳
昭和44年9月12日指定
天野川右岸の丘陵上にある式内山津照神社境内に位置する当古墳は、明治15年に社殿の移転に際し、横穴式石室が発見された。
墳丘は一部が削平をうけているが、全長約63mと推定できる前方後円墳である。主体部には石棺を安置していたようで、内行花文鏡・獣文鏡・五鈴鏡・金銅製装身具残片・三輪玉・鹿角製刀子・馬具・勾玉・管玉・切子玉などと杯蓋・杯身・提瓶・長頸壺・大型器台などの須恵器類が出土している。墳丘からは朝顔形埴輪・円筒埴輪が出土している。これら出土品の大部分は滋賀県指定有形文化財に指定されている。
当古墳は天野川下流の古代朝妻郷内に所在する人塚山・後別当・塚の越・狐塚古墳など前方後円墳とともに息長古墳群を形成し、息長氏と推定される首長系譜を明らかにする古墳といえる。
平成4年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



山津照神社後由緒

鎮座地 滋賀県坂田郡近江町大字能登瀬
後祭神 国常立尊
例祭日 5月5日 9月11日
境内社 青木神社 二宮八幡神社
    北野神社 春日神社
御由緒
創祀の年代は詳らかでないが、この地は開化天皇の皇子・・王三世の孫息長宿根王の在住の地としてその子孫が連綿と栄えたところで、明治15年に発見された境内の古墳は息長宿根王の墳墓と伝えられている。
称徳天皇の天平神護2年神封六戸を寄せ奉られている。清和天皇の貞観8年従四位上より正四位下を授けられ、宇多天皇の寛平9年の太政官符には、坂田郡山津照名神の名がみえ、醍醐天皇の延喜の制には、坂田郡五座の一にして名神の小社に列せられている。
中古、鎮座地を青木の里と呼ぶことより当社を青木大梵天王、また青木大明神と称せられていた。承久3年後鳥羽上皇名越に行幸された時に参詣され、宝剣一口と菊桐の御紋章を奉納された。正応2年10月には光厳院が院宣を下して神殿を修造し天下泰平を祈願された。
明治維新以後神仏分離し、もとの山津照神社に改称し、明治9年10月村社となり、同14年5月郷社に列し、更に大正10年2月県社に昇格した。近郷二十ヶ字の氏子を有する。

社頭掲示板



山津照神社

創祀年代は詳らかでないが、「神祇資料」によると、「山津照神社、今能登瀬村にあり、称徳天皇天平神護2年、近江地6戸を神封に充奉る」とあり、又「近江坂田郡志」によれば、「興福寺官務牒疏」に「山津照神。在坂田郡箕浦之東能登瀬。供僧三人。神主二人。神人二人。宣化天皇三戌午年。影向勧請。金勝寺四箇處鎮守之其一也」とあり、延喜式の小社に列せられた古社である。天武天皇の御代奉幣あり、文徳天皇より、仁寿元年正六位に進められ、清和天皇より、貞観8年正四位下に敍せられた。宇多天皇の寛平9年金勝寺の鎮守として、近江国の国司から、この年に年分度者2人に許可を与え、それぞれ飯道名神(信楽)と山津照名神とに仕えさせたい旨奏上したところ、朝廷もその請願を許可された。又醍醐天皇の延長6年、位記の印を請け、光明天皇の暦応2年、祈願あって本社を修造された。後光厳天皇の文和3年、御祈願があるなど朝野の崇敬が厚く、社領の寄進などがしばしば行はれた。中世は青木の宮と称せられていたが、明治以降はもとの山津照神社に復称し、明治14年郷社に列し、大正10年県社となる。近郷の総社として27ヶ村(現在は20ヶ村)の氏神として崇敬されている。境内にある古墳は、明治15年参道拡張工事の際発見されたもので、神功皇后の御陵候補地で、当社と深い関係がある。

滋賀県神社庁



山津照神社

山津照神社概要
山津照神社の創建は不詳ですが天武天皇の御代(673〜86)に勧請されたのが始まりと伝えられています。
この地は古代豪族息長氏の支配する地域で、境内には息長宿祢王の墳墓と伝わる前方後円墳があるなど息長氏と関係が深い神社だったと思われています。
中央にも知られていた存在で仁寿元年(851)に正六位、貞観8年(866)に正四位下に列し、延長5年(905)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されていました。
その後も朝廷や領主から崇敬、庇護され承久3年(1221)には後鳥羽上皇が宝剣を奉納、正応2年(1289)には光厳院が社殿を修造し天下泰平を祈願したとされます。
古くから、青木大梵天王や青木大明神などと称し神仏習合の形態をとっていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され旧社号である山津照神社に改称、明治16年に現在地に遷座、近隣ヶ村(現20ヶ村)の総社となりました。

社頭掲示板



滋賀県指定史跡 山津照神社古墳

 平成6年の調査では、古墳の裾部に円筒埴輪、朝顔型埴輪と石見型埴輪などの埴輪列が巡っていたことがわかりました。石見型埴輪は、玉杖の頭飾りを模した威儀具で、6世紀に入ると近江や尾張など継体天皇と関わる地域に分布しており、注目されています。古墳北側のくびれ部には、人工的に整地された施設があったようで、器台、大甕、有蓋高杯など多量の須恵器が出土しています。古墳の全長は46.2mで、墳形は5世紀後葉以降の畿内の巨大古墳と相似形になります。

社頭掲示板



山津照神社

山津照は夜末都天良と古点あり○祭神詳ならず○能登瀬村に在す、青木大梵天王と称す、(與地志)
金勝寺寛平9年6月23日官符に、坂田郡山津照名神」或記云、一説に柏原駅青木大明神、或記的実なるべしと云り、
神位
三代実録、貞観8年閏3月7日壬子、近江國從四位上山津照神授正四位下」扶桑略記裡書、
延長6年5月2日丙午、近江國坂田郡山津照子乃明神位記請印、

神社覈録



郷杜 山津照神社

祭神 國常立神
創祀年代詳ならす、称徳天皇天平神護3年近江の地六戸を神封に充て奉り(新抄格勅符〕、清和天皇貞観8年閏3月從四位上より正四位下を授けらる(三代實録)(また扶桑略記俚書に「延長6年5月2日丙午、近江国叛田郡山津照干乃明神位記諸印」と見えたれど神階詳ならす)醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式》、降つて後島羽天皇正治元年、天皇名越に行幸の時、菊桐の紋章を許され、又神剣を納め給ふ、光厳天皇の朝社殿の修造あり、次いで後光厳天皇文和3年6月、美濃國不破郡垂井頓宮に坐しゝ時、御祈願の事あり、其の後足利義政亦修築を加ふ、足利氏の末戦乱栢次ぎ、社殿屡々兵火にかゝり、社領大半没収せらる、後拍原天皇大永年中、隆頼なる人祈願の事あり、社領若干を寄進す(社記、旧と青木大梵天王社と称寸、青木の氏神なり(與地志略、明治9年10月村社に列し、13年郷社に昇絡す、社地丘上に位し、社南十余町に昔時の鳥居の跡あり。又西方箕蒲村には、祭神降臨の跡と称するあり、境内483坪(官有地第一種)、社殿は本殿、舞殿其他神門、中門、手洗含、宝蔵等あり。
因に紀す與地志略所載の僧鳳択の賂記に、
「江州琵琶湖の東坂田郡に山あり、大光山と号す、五廟あり、第一社は青木の大祖正一位鎮守府将軍武蔵守時畏なり、其の先は即ち大織冠鎌足公の七世、正一位越前守藤原高房公の男なり、母は藤の真夏卿の息女なり、第二社は鎮守府將軍正二位利仁なり、勲続天下に聞ゆ、それより以降孫子みな藤原武門の嫡葉と称す、是に及で後代祭祀の時、必郡国の藤家武族をして執祀の儀を司らしむ、第三社は武藏守正一位青木大宮大明神の廟なり、第四社は武蔵守吉信正一位青木新宮大明神の廟と称す、第五社ば伊伝武藏守正一位新宮大明神廟なり、以上九代、太祖時長より歴代北陸道管領となりて越前の城に守護たり、十三世武藏守親忠に至る、文治の初め箕浦河の邊に五廟を立つ云々」
と、又光嚴天皇の院宣あり、曰く、
「近江国青木大梵天皇本社為勅願之儀。遂修造之砌、殊可奉祈下太平者
院宮如此、仍執達釦件。
暦応6年10月4日、按察使経顕
本願上人御房
右添書
暦応3年10月4日之
院宣一紙者、近江国坂田那能登瀬村善性寺所傅来、而按察使経顕卿之真蹟也、雖然余猶憚独見誠示之勤修寺中納言高顯卿一彼卿一竃了、是吾家先世内大臣経顕公為按察使時之筆蹟、判然舞疑者也云々、当寺永永之至宝何物加之哉、仍為之短語云爾。
享保11年6月24日 参議右兵衛督俊宗」
又天正中社地竹木刈取禁制折紙あり、
「其の地青木宮竹木苅取其沙汰限候、如近年はやし可申候、牛馬もはやし申間敷候、付ては祭礼奉行の儀も如前々可有別儀候、定めて御給人衆も可為其分候、恐々謹言
卯月5日
太郎左衛門
吉次 花押
少路太郎右衛門殿」
其他宝永4年奉加牒叙なるものあり、
「暦応年中有勅願儀、使菅者遂造営、蓋、古藤武家之所執行而有神領自今及信仰稍疎放頽廃貨財闘故礎傾柱朽、豈不棲乎、今又勤氏属信衆欲修造茅社震不論、短木半銭乞諸方資也。」
と。

明治神社誌料



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