山ちかく。平地で境内より伊吹山よく見える。 地形等を考慮すると、伊吹の山の神の祭祀場所であったとする説も考えられている。 |
岡神社 鎮座地 滋賀県坂田郡山東町大字間田小字岡96番地 祭神 皇産霊大神(大梵天皇神) 天地創造、開拓、生産の神 他六柱 神紋 左三ツ巴、平四ツ目七ッ割 例祭 5月1日 本殿 三間社流造(天保12年再建) 間ロニ間三尺奥行二間一尺 拝殿 入母屋造(昭和35年再建) 間口四間奥行三間 その他主たる建物 神門、神饌所、斎館、神輿庫、手水舎、社務所 境内地 2156坪 氏子 860戸(旧大原村十三ケ字) 御鎮座 当社の創立は、白雉元(西暦650)年出雲の國人が、大原野と称する肥沃な原野を開拓し、伊吹山下より溝渠を穿ち、姉川より用水の便を計り、開墾地に潅流し、その工事が同3(652)年5月に落成、後にこの井渠を出雲人の開墾したるを以て、出雲井と名付け今日に至っている。斯くして、この大原野の五穀豊穣と、郡の安泰を祈るため、その大原野を見?かせる岡山に祀堂を建立し、万物根源の神、皇産霊大神(大梵天)を勧請したのが始まりとされる。 沿革 創立期の白雉年間は、第36代孝徳天皇(天万豊日尊)の代にして、第34代舒明天皇(息長足日広額尊)の皇后、第35代皇極天皇(天豊財重日足姫尊)4(645)年中大兄皇子、中臣鎌足らにより、時の権力を思いの侭にしていた蘇我氏を誅滅し、中臣鎌足らの意見により、孝徳天皇が即位、中大兄皇子を皇太子とし、大化と建元し、大化改新の事業を進め、班田収授、租、庸、調、戸籍の制などを定めた。 この事を受け、且つ亦、孝徳帝の姉皇極帝は、舒明帝の后でもあり、舒明天皇は、第30代敏達天皇の后息長広姫を祖母に持ち、亦、息長陵(息長広姫の御陵)を大原郷の西側に持ち、息長族は、渡来系の民族で、数々の先進文明をもたらしている事から、此の地を早くから開墾したものと思われる。 当社が勧請された白維年間(650〜654)以降鎌倉時代前期までのはっきりとした記録はなく、宝治元(1247)年佐々木左右衛門太夫重綱が、大原の庄十八郷を領し、大原氏を称し、爾後、累代当郷の主となるや、当社を復興し、大原秀義、持時、持綱等が、御供料として年々百貫を寄せ、崇敬の厚かったことが伺われる。 また、往古に於いては、伊吹山四大護国寺の内、弥高寺の末寺松林坊(真言宗)が別当寺となるが、観音護国寺の寺僧が祭礼を司っており、また、この観音寺とは、文明八(1476)年、観音寺本堂建立に当たり、境内の松木四本を観音寺側へ差し出していることからも、ただならぬ関係が伺われる。しかし、江戸期にはいると、下司村(現長浜市宮司町)の惣持寺とのつながりも深く、元禄5(1692)年に「神宮山大勝院長久寺」の山院号を氏子中で賜りに行った記録が残っている。 なお、氏子区域は、当社の創立の起源にちなみ、出雲井水系の地区に亘り、延宝3(1675)年の記録によると、小田村、間田村、春照村、井ノロ村、本庄村(天満)、本庄中村(本市場)、高番村、村居田村、坂口村、烏脇村、観音寺村(朝日)、野一色村、上夫馬村(朝日)、下夫馬村(夫馬)、市場村、産所村(市場)、市場中村(本市場)、池下村の十八郷が見えるが、これに相撲庭村が入り十九郷とするのが妥当である。(一説には、伊吹村も大原郷に属せしと云えり。)しかし、現在の氏子は、町村合併の影響を受け、前記の内、浅井町の相撲庭、伊吹町の春照、高番を除く十三ヶ字となっている。またこの大原郷は、往古より出雲井の管理を握り、姉川下流域の村々との渇水期の水争いが絶えなかったことが、多くの資料からも察することが出来る。 さらに、この広大な耕地の肥飼料とすべく伊吹山系の一つの伊吹町藤川にある川戸山(石高五十四石)を入会山と定めている。 また、近江輿地志略に、『延喜式神名帳の岡神社間田村にあり。』とあるが、式内岡神社は諸説あり、定かではないが、前期にも記したように、護国寺の管理の下、祭祀がなされていたことを考慮すれば、当社が式内岡神社であったことも推察できる。 尚、地形等を考慮すると、伊吹の山の神の祭祀場所であったとする説も考えられている。 庭園 境内東方の旧社務所(松林坊)跡に、庭園がある。 作者、製作年代不詳ではあるが、その形態や古記録に依れば、桃山後期から江戸初期の作であることは間違いなく、その豪壮な造りは文化遺産に値するものがある。なお口伝ではあるが、堺の鞘師にして豪商、秀吉の御伽衆でもあった曽呂利新左衛門の作と伝わっている。 神事芸能 大原郷太鼓踊り 前記に示したように、旱魃時に水争いが絶えなかったことからも、この地域には古くから雨乞行事が残っているが、それらは国選択無形民俗文化財「(朝日)豊年太鼓踊り」にみられるように、鉦や締太鼓を打ちならして雨乞いをし、叶えば返礼踊りをするものである。しかし、その起源は諸説あり定かではないが、室町期に興ったとする説が有力であろう。 その内容は、まず各村々の鎮守にて願を掛け雨乞踊りをし、霊験があれば地元で返礼踊りをするが、それでも叶わない場合は、惣郷岡寺松林坊に集まり、相談の上、岡神社にてお経掛けと称して祈願をなし、神籤により各村々の男子全員が間田村と本庄村の境にある立石に集結、参道南端の一本松より、太鼓・鉦を打ち鳴らし社参、境内にて夜を徹しく踊り、祈願したとされる。また、願いが叶えば岡神社に返礼踊りをし、社殿への奉納等をおこなった。 宝物 隕石一個重量61.5Kg社伝に依れば、明治初期に七尾山山中に落ちた隕石を大八車にて拾いに行き当社に奉納されたと伝えている。 さざれ石一体 昭和25年9月25日のジェーン台風により、出雲井が一部流出し、改修を余儀なくされた折、それまでの堰にあった巨大なさざれ石を出雲井の由来にちなみ、岡神社に奉納され、明治四十二年野一色の八幡神社が合併され、境内社となっていたが、第二次大戦後野一色に戻ったので、その跡地を聖地と定め「寿命石」とし奉祀されている。 由緒書 |
岡神社庭園概説 旧社務所書院の南庭で、背後の築山西側に枯流れをつくり、枯池には巨石を組んだ大形の中島を設け、前方に小ぶりの岩島(浮島)を点々と置く。三尊風の枯滝石組や流れの石組み、中島の立石等も豪壮で、よく古制を伝えている。書院踏石及び中門より打たれた飛び石(但し後補)が高く据えられ、飛び石の至る池畔の礼拝石にも巨石を用いている。沿革を詳らかにしないが、豪華な石組みによる構成に江戸初期作庭という伝承がうべなえる。 社頭掲示板 |
岡神社 由 緒 当社の創立は、白雉元(西暦650)年出雲の國人が、大原野と称する肥沃な原野を開拓し、伊吹山下より溝渠を鑿ち、姉川より用水の便を計り、開墾地に潅漑し、その工事が同3(652)年5月に落成、後にこの井渠を出雲人の開墾したるを以て、出雲井と名付け今日に至っている。 斯くして、この大原野の五穀豊穣と、郡(むら)の安泰を祈るため、その大原野を見霽かせる岡山に祀堂を建立し、万物根源の神、皇産霊大神(大梵天)を勧請したのが始まりとされる。 沿 革 創立期の白雉年間は、第36代孝徳天皇(天万豊日尊)の代にして、第34代舒明天皇(息長足日広額尊)の皇后、第35代皇極天皇(天豊財重日足姫尊)4(645)年中大兄皇子、中臣鎌足らにより、時の権力を思いの侭にしていた蘇我氏を誅滅し、中臣鎌足らの意見により、孝徳天皇が即位、中大兄皇子を皇太子とし、大化と建元し、大化改新の事業を進め、班田収授、租、庸、調、戸籍の制などを定めた。 この事を受け、且つ亦、孝徳帝の姉皇極帝は、舒明帝の后でもあり、舒明天皇は、第30代敏達天皇の后息長広姫を祖母に持ち、亦、息長陵(息長広姫の御陵)を大原郷の西側に持ち、息長族は、渡来系の民族で、数々の先進文明をもたらしている事から、此の地を早くから開墾したものと思われる。 当社が勧請された白雉年間(650〜654)以降鎌倉時代前期までのはっきりとした記録はなく、宝治元(1247)年佐々木左右衛門太夫重綱が、大原の庄十八郷を領し、大原氏を称し、爾後、累代当郷の主となるや、当社を復興し、大原秀義、持時、持綱等が、御供料として年々百貫を寄せ、崇敬の厚かったことが伺われる。 また、往古に於いては、伊吹山四大護国寺の内、弥高寺の末寺松林坊(真言宗)が別当寺となるが、観音護国寺の寺僧が祭礼を司っており、また、この観音寺とは、文明8(1476)年、観音寺本堂建立に当たり、境内の松木四本を観音寺側へ差し出していることからも、ただならぬ関係が伺われる。しかし、江戸期にはいると、下司村(現長浜市宮司町)の惣持寺とのつながりも深く、元禄5(1692)年に「神宮山大勝院長久寺」の山院号を氏子中で賜りに行った記録が残っている。 なお、氏子区域は、当社の創立の起源にちなみ、出雲井水系の地区に亘り、延宝3(1675)年の記録によると、小田村、間田村、春照村、井丿口村、本庄村(天満)、本庄中村(本市場)、高番村、村居田村、坂口村、烏脇村、観音寺村(朝日)、野一色村、上夫馬村(朝日)、下夫馬村(夫馬)、市場村、産所村(市場)、市場中村(本市場)、池下村の十八郷が見えるが、これに相撲庭村が入り十九郷とするのが妥当である。(一説には、伊吹村も大原郷に属せしと云えり。)しかし、現在の氏子は、町村合併の影響を受け、前記の内、浅井町の相撲庭、伊吹町の春照、高番を除く十三ヶ字となっている。またこの大原郷は、往古より出雲井の管理を握り、姉川下流域の村々との渇水期の水争いが絶えなかったことが、多くの資料からも察することが出来る。 さらに、この広大な耕地の肥飼料とすべく伊吹山系の一つの伊吹町藤川にある川戸山(石高五十四石)を入会山と定めている。 また、近江輿地志略に、『延喜式神名帳の岡神社間田村にあり。』とあるが、式内岡神社は諸説あり、定かではないが、前途にも記したように、護国寺の管理の下、祭祀がなされていたことを考慮すれば、当社が式内岡神社であったことも推察できる。 尚、地形等を考慮すると、伊吹の山の神の祭祀場所であったとする説も考えられている。 公式HP |
岡神社 創祀は白雉3年で、延喜式神名帳に在る坂田郡五座の一社である。祭神高皇産霊神は大梵天王神とも言う。白雉元年出雲国人移住し、大原郷の開拓に際し、姉川の水を引きて養水の便を計り、開墾地に灌漑をした。此の工事は同3年に落成し、(出雲井と称し現存する)斯くて人々五穀豊穣を祈らん為、岡山に祠堂を建立し、大梵天王と称し、勧請したと伝えられる。佐々木氏が近江を領するに及んで、寿永年間に、佐々木秀義当社を復興し、崇敬厚かったが、宝治元年大原の庄18郷の地を領した佐々木左衛門太夫重綱が、社殿及び拝殿を造営し、以来10余代、佐々木(大原氏)守護の神として崇敬深く、神殿の造営形式は、宝暦10年の調書に有り、天下に誇る造営物であったが、自然に腐朽荒廃し、天保10年の大暴風雨で、国宝的価値ありと想像される神殿、拝殿が崩壊した。十余郷の庄屋、社坊の松林坊に参集し、再建を決議し造営された。嘉永3年再建の棟札が現存する。両部神道の頃、現天台宗観音寺文書記録中に、当社の社名が所々に見られ、文明8年伊富貴山観音護国寺本堂柱出所として、「四本(2本八一貫文買)松木 岡社」又文禄6年の古記録「巨細帳」に、当社の行事を記し、遠族、病者、忌僧以外の者で、随意を構へて不参の者は、過銭30文を出すべきを定める等々。当社と観音寺との関係を知るだけでなく、当社を古社である「式内岡神社」と立証する史料でもある。延宝3年の調書によれば、当社は間田、小田、春照(伊吹町)、井之口、本庄、本庄中、高番(伊吹町)、村居田、坂口、鳥脇、観音寺、野一色、上夫馬、下夫馬、市場、産所、市場中、池下村等大原庄18郷の総社(大原大社)であった。明治14年郷社に列し、同41年神饌幣帛料供進指定となる。 滋賀県神社庁 |
郷社 岡神社 祭神 皇産霊神 孝徳天皇白雉元年、出雲の人某、大原野を開拓し、伊吹山下より水を引きて灌漑に便せんとし、3年5月功成る、茲に丘上の地をトして一社を建つ、是れ即ち当社の創始なり(社記)、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)爾来十八郷の鎮守として、大梵天王と称し(與地志略)、世人の崇敬深かりしが、鎌倉の季世には漸く衰へ、社殿荒廃に属す、よりて後深草天皇宝治元年近江の守護佐々木重綱城を此の地に築くに際し、当社を崇敬し、社殿を再建す、明治14年村社に列し、次いで郷社に昇格す、境内2309坪(民有地第一種)、社殿は本殿、拝殿其の他社務所、倉庫等あり、延喜式岡神社に関しては数説あり、神祇志料には、宇賀野村に在りて岡天皇社と称するものを之に擬したり、一書為に説をなして曰く「今按ずるに、此の社注進状、宇賀野村、問田村、兵岡村、後三條村との四所に在り、宇賀野村坂田大神宮の同所に、外宮岡神社祭神豊受毘売命、社傅に此の神社神ち式内社にして、承応年中古絵図にも、宇賀野の内岡と認めありといへり、是れ明証といふべし、門田村の岡に在りといふは、旧號大梵天王社といへる趣なれば如何あらん、神名帳岡神社是かと疑を存せり、長岡村なるは、往古岡里といふ、中古社號を岡天王社と誤り傅ふとあれど、証なければ疑はし、又後三條村彦根神社の境内に田中社あり、一に岡天王社とも若宮とも云ふ、村続きに岡山岡村あり、今犬上郡に属すと雖も、中古坂田郡ならんといへり、神名帳考証にも、今在犬上郡彦根後三條町田中俗云田中社、と見えて、聊拠ありげなれども、宇賀野村に岡神社あり、古絵図に岡村の称あり、祭神豊受比売神を字迦之売神とも、豊岡姫とも申すと云ふ由あるに如かざれば、今は宇賀野村といふに從へり」と、以て参考とすべし。 明治神社誌料 |