坂田神明宮
さかたしんめいぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】岡神社 近江国 坂田郡鎮座

   【現社名】坂田神明宮
   【住所】滋賀県米原市宇賀野835-1
       北緯35度20分13秒,東経136度17分13秒
   【祭神】天照大神 豊受姫命
       『明治神社誌料』『神社由緒記』「天照皇大御神」

       祭神は天照皇大神(坂田宮)豊受毘売命(岡神社)とする。

   【例祭】4月29日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】垂仁天皇8年7月7日創祀
       建武の乱に兵災に罹り、佐々木秀綱社殿を再建
       応仁の乱以後再三兵火
       元和3年(1617)片桐且元の寄進によつて本社の再建
       享保18年(1733)領主井伊直惟社殿を再建
       明治14年2月1日郷社
       明治41年4月29日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「岡天王社」と称していた
   【社殿】本殿神明造二社
       祝詞舎・神饌所・手水舎・拝殿・神樂殿・太鼓部屋・社務所

   【境内社】宇賀野神社・内宮・外宮・七所別宮・四所別宮・倭姫社・祖霊社

元伊勢の伝承地である坂田宮(内宮)と、式内社論社である岡神社(外宮)の両宮からなる。
倭姫命が天皇の命を奉じて、天照大神鎭座の地を求めた時、2年間遷幸ありし坂田宮はこの地と伝わっている。
孝安天皇の時代に宇賀野魂命が降臨し、鎮座地「宇賀野」は「宇賀野魂」という神名に因んだものであるという。その後、延喜の制で近江国の小社(国幣小社)に列した坂田郡「岡神社」であるとされ、後に坂田宮に合祀されたものであるという。


坂田神明宮

坂田神明宮の由緒
一、鎮座地 坂田郡近江町大字宇賀野835
一、祭神  天照大御神 豊受毘売命
一、由緒略記
今から二千百余年前垂仁天皇は天照大御神の尊い御神徳が広く他国にも行渡ることを願い皇女倭姫命として人々に仰く道を開かしめられた。
初め甲賀日雲宮に宮所を定められ次いで御神幸あらせられたのがここ坂田宮で垂仁天皇の8年7月7日とされている。この日坂田郡の人々は豪族坂田公と共に天照大御神を迎へ敬つてこれを祀り里人の奉仕によつて大御神奉斎の神殿が設けられこの宮所でその年の秋の新嘗祭も又その翌年の祭も鄭重に営まれ神楽の祝も賑やかに行われた。その翌10年7月の終りに至つて名残を惜しむ里人に見送られ大御神は此地を御発幸あらせられ美濃・尾張更に伊勢の国に入らせられ最後に同天皇の26年に五十鈴川上の現在の皇大神宮の地に御鎮座遊ばされたのである。
坂田郡の人々は此地に二年の間大御神の奉斎されたことを永く記念するためその宮所とされた神殿をそのまま大御神の宮所としてこれを坂田宮とよんだ。そして御神田から採れた御供を捧げた又御神徳を仰いで食物の神たる豊受大御神の御殿をも並び建て厚く祀つた又此の地に大御神をおつれ申した。
倭姫命の社を祀つたこれが坂田神明宮の起りである。
伊勢神宮よりも早く御跡を垂れさせられた所として「元伊勢」とする信仰がある。現在の御社殿は伊勢神宮にならつて内宮外宮の御社殿を中心に内宮の七別宮と外宮の四別宮及倭姫社をも併せ祀つていることは伊勢に次いで尊いことである境内には真名井の清泉が尽きず神代のままの御神水は参詣者の心を清々しくしてくれる。更に毎日の御饌米を奉つた宇賀野の神田はこの御ゆかりからその後も永く皇大神宮の御料地とされ「坂田御厨」と呼ばれた毎年の御初穂米は皇大神宮に送られると共に一部は坂田宮にも奉られ大御神の神饌米とされた。
応仁の乱以降戦国時代にはしばしば兵火にかかる厄に遭つた。元和3年片桐且元の寄進によつて本社の再建が成り次いで井伊氏が彦根城主となるや享保18年には彦根中将直惟は鬼門鎮護の神として当社崇敬の念厚く社殿を造営して近江七郡の五穀豊穣の御祈願所ときれ且藩郡社或は坂田一郡の総社とされ郡内外の信仰を集めた。
明治維新となるや同5年地元宇賀野村の氏神と定められ同24年に内・外宮の神殿を造営したこれが今日の社殿であり由緒深い神社である。
旧社格県社 例祭4月29日 9月15日
社宝 御陽成天皇御宸筆懸軸(重要文化財)
坂田神明宮由緒の概略
神砥院考証官岡田米夫先生考証之一節
本社ノ地、垂仁天皇ノ御宇天照太神ノ大和国ヨリ近江国ヲ経テ伊勢ニ御遷幸アラセ給ヒシ時ノ大宮処ノ一ニシテ皇太神宮儀式帳ニ「淡海坂田宮」ト云ヒ倭姫命世記ニ「淡海国坂田宮二年奉斉于時坂田君等進地口御田」トアル地是ニシテ本社ノ坂田郡ニ在リ且ツ坂田君ノ本拠地ニシテ同鎮座地ヲ宇賀野ト云ヒ本社名ヲ坂田宮ト名付クハ実ニ是ヲ示セルモノニシテ(嘉吉元年興副寺未派寺社■記ニ皇太神正応四年筑摩社七箇寺社之古図ニ坂田宮)古来ヨリ諸学者ニ於テモ本社ヲ以テ此宮処ニ宛ツルコトニ異論ナキ所ナリ(太神宮本記帰正捗以下)神鳳抄ニ其神領ヲ言ツテ近江国坂田御厨ノ名残レルモ亦ソノ遺称ヲ示スモノト言フベシ
中世建武ノ兵火ニ羅リ伊吹太平城主佐々木秀綱コレヲ再建セシカ(社記)応仁以降元亀、天正ノ乱ニ社殿再ヒ兵火ニ羅リシカ近世初頭ニ至リ元和三年片桐且元ノ大坂天王寺普請ニ際シ其余木ヲ以テ本社ノ造営ヲ寄進シ(社蔵由緒書)更ニ徳川氏ノ世トナルヤ当国ノ藩主井伊家ハ其彦根城鬼門鎮護ノ神トシテ享保十八年彦根中将直惟ハ本社ノ造営ニ力ヲ致シ(社蔵棟木)ソノ竣効ニ当リテハ自筆ノ篇額ヲ献シ(社蔵)神田壱反八畝余歩ヲ奉リ(神田帳)且ツソノ遷座祭ニモ家老ヲ遺シテ代参セシメタリ(社蔵万留帳)カク藩主ノ崇敬厚キ社ナルヲ以テ奥方初メ家老代官以下ノ諸士モ挙リテ祭器神宝調度ノ品々ヲ多数献備シ加フルニ其神主ニハ特ニ藩士ヲ任スル等一藩挙ツテ厚キ崇敬ヲ寄セタリ(社蔵万留帳遷宮寄附帳遺品銘)次テ寛保三年ニハ家老木俣清左工門ハ米五十俵、戸塚右大夫ハ十五俵ヲ夫々神供料トシテ寄進シ(社蔵記録)寛延三年ニハ藩主直定ハ領内安全ノ祈願、文化四年ニハ更ニ藩主厄年ノ祈願ヲ命シ(寛延文化留書)爾俊彦根藩御祈願所或ハ藩郡社坂田一郡総社ノ称号ヲ許サレ(社蔵記録)且ツ制札ヲ下シテ保護ヲ加ヘシメタリ、更ニ明和四年、安永四年、天明三年、寛政三年、享和二年、天保三年ノ社殿造替ニハソノ都度藩費ヲ以テ修繕ヲ加へ(棟札社記)且ツ神宝装束祭器具類ノ修繕ヲ施サシメ以テ維新ニ及ヘリ
斯ク藩主ノ崇敬厚キニ加フルニ彦根藩管下ノ近江七郡ニ対シテモソノ領内安全ノ祈願祭ニ際シテハ其度毎ニ初穂料ノ寄進ヲ命セラルル等(初穂帳)藩領挙リテ篤キ崇敬ヲ寄セタリ
以上ノ如ク本社ハ天照皇太神ノ御遷幸大宮處ト由緒深キ神社ニシテ且ツ近世ニ至リテハ武将・片桐且元藩主井伊家歴代ノ崇敬厚キノミナラス近江七郡ニ互ツテ広ク象庶ノ尊崇ヲ蒐メ得タル由緒深キ神社テアル

由緒書



坂田神明宮

垂仁天皇8年の御代、天照皇大臣を淡海甲可日雲宮より、此地に2ヶ年の間奉斎され、御分霊の旧社として、古より坂田宮又は坂田大神宮とも称し、坂田郡の総社として信仰が厚かった。又、天皇の命をうけて、大御神鎮座の地を求めた倭姫命の御神徳を偲び、命を祀ったのが坂田神明宮の起源である。当社は、彦根藩井伊家の崇敬厚く、享保18年、藩主直惟は社殿を造営し、神殿を寄進、以来社殿の修復等に費用を献じた。又奥方より鏡、絵馬、家老以下神田の米、石燈籠を奉献された。明治14年郷社に列し、昭和20年県社となる。

滋賀県神社庁



坂田神明宮 (坂田宮・岡神社)

坂田神明宮は、元伊勢と呼ばれ伊勢神宮と同じ内宮(坂田宮・右 と 岡神社・左)の形をとった神社であり、叛田宮岡神杜は瑞垣内に祀られています。
境内には、内宮の別宮の神々を合祀した七所宮、外宮の別宮の神々を合祀した四所宮、倭姫命を祀る倭姫命社、旧社殿(二棟)が有ります。
また、境内「古事記」(上巻)の「天の真名井」の神話にちなんだ真名井の清泉があります。

社頭掲示板



岡神社

岡は乎加と訓べしO祭神在所等詳ならず
考証に、今在犬上郡彦根後三條町田中、俗云田中社、叉小原村之中野伊志伎村有長岡、同異未詳、亦若宮宇賀野村、」與地志、日岡神社問田村にあり、神名帳岡神社是かと云う、
連胤按に、神埼郡乎加神社あり、由縁あるか

神社覈録



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