神功皇后の祖息長氏の地。集落奥の山腹。杉木立の中にある。 |
由緒 延喜式神名帳記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創始の年代は詳かではないが、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社伝および明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、皇后此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、御父息長宿禰王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由来を説いている。 中古は、社領六百石を有し、朝妻荘内十一ケ村大社であり数箇の大伽藍と十九の社坊を数え、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の祟敬深く、村上天皇は宸翰の額を奉納され、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、應神天皇を祀り給う、その時村人による角力を叡賢され給う。この角力が今日伝承され毎年奉納されている。また黄牛を奉納されたとも伝えられている。その他武門、武将の尊祟厚く、後小松天皇の應永年中、京極高光の建立せし伽藍等蛾ありしが、数度の兵燹に罹りまた織田信長の叡山諸院を焼亡するや、神官、僧侶等これをおそれて自焼し、古記録ことごとく焼失する。 社殿は、亨保8年(1723年)3月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたものである。 明治14年3月に列し、明治24年内務省より古社保存資金を受け、大正10年5月県社に昇格せられる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日撫神社 延喜式神明帳記載の坂田郡五座名神小の一にして、創祀年代は詳かでないが、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝4世の孫阿知使主の族也と云う、之によれば、ニ氏の俗或は此地に居る者、其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも、「祭神火撫直祖神譽」と記されている。社伝および明治の神社誌によると、当地は、神功皇后の祖先代々住まわれし地なるを以て、皇后此の地を深く慕われ、三韓より凱陣の後、此の地に祠を建て、少昆古名命と御父息長宿弥王を祀られたのが創祀と、由来を説いている。中古は、社領600石を有し、朝妻庄内11ヶ村の大社で、数個の大伽藍と19の社坊があり、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の崇敬厚く、村上天皇は宸翰の額を奉納され、小野道風をして、下馬札を書かせ給う。特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を合祀されて、村人等による角力を叡覧され、この角力が今日伝承され、毎年秋祭に奉納されている。上皇は黄牛を奉納され、ひとえに御寵愛の牛と言はれ、この牛神慮にかない寿百余歳を保つと伝えられている。武将の尊崇も厚く、佐々木四郎高綱は、常に当社を敬い武運長久を祈願され、太刀並に生食馬(いけづきうま)の鞍を奉納される。後小松天皇の応永13年京極高光は、社殿の造営と大伽藍を建立されたが、数度の兵火に罹り、織田信長叡山諸院を焼亡し戦火北上するにより、神官、僧侶等これを恐れて自焼したため、古記録、宝物悉く焼失した。享保6年現在の社殿を修営され、拝殿は寛政年間に建てられたものである。また正保3年北小路の田の中より古鏡が発掘される。明治14年郷社に列し、同24年内務省より古社保存資金を下賜され、同41年神饌幣帛料供進指定となり、大正10年県社に列す。式内社 滋賀県神社庁 |
日撫神社 日撫神社御由緒 鎮座地 滋賀県坂田郡青海町顔戸鎮座 御祭神 少彦名命 應神天皇 息長宿禰王 御由緒 当社は、延喜式神名帳に記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創祀の年代は詳らかでないが「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢宣帝四世の孫、阿智使主の枝也と云へり、之によるに、二氏の族、或いは此処に居るもの其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社殿及び明治の神社誌によると当地は神功皇后の祖先代々生まれし地なるを以て、皇后此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣給うや、此の地に祠を建て、御父息長宿禰王、及び国土経営と医薬に功ありし少毘古名命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由来を説いている。 中古は社領六百石を有し、朝妻庄十一カ村の大社であり、数個の大伽藍と十九の社坊を数え、多くの社僧がいたことを記録にのこしている。歴朝の崇敬深く、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を祀り給い、その時村人等による角力を御覧され給う。この角力が今日も伝承され毎年奉納されている。また黄牛を奉納されたとも伝えられている。その他、武門、武将の崇敬厚く、後小松天皇の応永年中京極高光の建立せし伽藍等がありしが、数度の兵災に罹りまた織田信長の叡山諸院を焼亡するや神官僧侶等これを恐れて自焼くし、古記録ことごとく焼失する。 社殿は享保8年(1723)3月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたものである。 宝物として、弘安6年の銘のある銅鐘一口、また、紙本淡彩古祭礼図三巻、 懸佛三面等あり。 明治14年2月郷社に列し、明治24年内務省より古社保存資金を受け、大正10年5月県社に昇格せらる。 例祭 5月3日 秋祭 9月15日 社頭掲示板 |
日撫神社卸由緒略記 当社ノ鎮座地ハ上古息長二郡ニシテ神功皇后ノ卸出生地卜シテ特筆大書スベク境内ノ朝妻山ハ萬葉集以来古歌ノ名所トシテ知ラレ今ヲ去ル一千数十年前醍醐天皇ノ御宇延喜式内社ニ列セラル、社記ニ神功皇后当社ヲ御創祠アリテ少毘古名命ヲ祀リ給ヒシト伝ウ爾来歴朝ノ御尊崇厚ク別ケテ村上天皇ノ勅額ヲ賜ワリ天明6年准三后一品公尊親王御自筆ノ額ヲ掲ゲ小野道風下馬ノ牌ヲ書スト云ウ、武門武将ニ於テワ源頼朝佐々木氏ノ崇敬アリ足利将軍ノ教書並ニ内書ヲ寄ス、明治14年村社ヨリ郷社ニ昇格シ同24年7月内務省ヨリ古社保存資金御下賜、大正10年5月20日県社ニ加列シ同年11月16日幣帛供進指定ヲ受ク、古鐘アリ弘安6年ノ銘ニテ、尚神事の角力ハ往古ヨリ名高ク後鳥羽上皇御潜幸ノ砌御上覧アリシト云ウ、境内ニワ戦国ノ力競石アリ 社頭掲示板 |
日撫神社 日撫は比奈天と訓べし○祭神火撫直祖神歟○顔戸村に在す 姓氏録、(河内國諸蕃)火撫直、後漢霊帝三世孫阿智使主之後也 神社覈録 |
郷社 日撫神社 祭神 少毘古名命 応神天皇 息長宿禰王 祭神に関して神祇志料は論をなして曰く、「新撰姓氏録を案するに、山佃造日撫直あり、共に後漢霊帝四世の孫阿智使臣の族也と云へり、之に拠るに二氏の族、或は此処に居るもの其の祖先を祀れるか」と、神社覈録も亦日撫直の祖神を祀るといへり、当地は神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以て、皇后も此地を慕ひ給ふ事深く、三韓より凱陣し給ふや、此地に祠を建て、御父息長宿禰王、及び國土経営に功ありし少彦名命を祀り姶ひしを創始とす、当時朝妻郷十ケ村を寄せ給ひ、応神天皇以後も歴代の崇敬甚だ深く、仁賢崇峻天智持統元正等の諸帝各御寄連の品あり、醍醐天皇延喜の制小社に列す、坂田郡五座の一なり(延喜式)、中古以後神仏混淆の説によりて堂塔伽藍の建立あり、降って白河法皇特に社領六百石を進め給ひ、二條天皇長寛2年俊寛僧都素戔鳴命を合祀し、更に鳥羽天皇の朝応神天皇を合祭す、後足利氏の代に及ぷや、此地屡交戦の巷となり、後醍醐天皇元弘3年官軍此地に陣して、北條仲時等を辻堂に襲ひしことあり、後光巌天皇康安元年足利義詮また此に陣す、足利義満以後は高貴の崇敬も浅からす、後奈良天皇天文、弘治、永禄の間、六角、京極、淺井等の諸將交々屯し、社殿の兵火にかゝるもの一再のみにあらず、後小松天皇の応永中京極高光の建立せし伽藍も多く鳥有に帰す、永禄以後は亦数々諸将の拠る所となり、織田信長叡山諸院を焼亡するや、俗侶神官等之に恐れて火を堂宇に放ちしかば、堂塔古記録悉く灰燼に帰し、只神宮寺最期状一巻を残すのみ、中御門天皇享保6年3月社殿を建造し、光格天皇寛政年中に至り、華表并に拝殿、神樂堂、唐門、回廊等を築成す、明治7年村社に列し、13年郷社に昇格す、社地琵琶湖を距る遠からず、境内2869坪(民有地第二種)、社殿は本殿、拝殿、唐門、渡殿、噺水舎、清地亭、倉庫等を備へ、宝物には信西寄進の鐘、及び慶舜阿閤梨の遺著、浄堂法印の開帳記等あり。 明治神社誌料 |