千代神社
ちよじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】都惠神社 近江国 犬上郡鎮座

   【現社名】千代神社
   【住所】滋賀県彦根市京町2丁目9-33
       北緯35度16分5秒,東経136度15分20秒
   【祭神】天宇受賣命 (配祀)猿田彦命
   【例祭】5月4-5日 春季例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】孝元天皇の皇女倭迹迹姫の降誕により勧請
       履中天皇の御宇再建
       明治2年千代神社と改
       明治9年郷社
       明治16年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】天正13年石田三成佐和山城を築くに当り、彦根山尾末の麓に遷
        慶長6年井伊直政彦根城を築くに当り旧社地姫袋の地に復祀
        昭和41年5月現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「千代宮」と称していた
   【公式HP】 千代神社
   【社殿】本殿
       拝殿・幣殿・社務所

   【境内社】

祭神は天照大神が隠れられた天に岩戸の前で舞を舞った天宇受賣命で、古来より芸能の神として敬われ、今も芸能関係者の人々が訪れ、芸の上達を祈願してゆく。
当社を式内都恵神社に比定する説がある。


由緒

当神社創立年代は不詳であるが、人皇第八代孝元天皇の皇女、倭迹迹姫の降誕により勧請、履中天皇の御宇再建したと伝え、御祭神天宇受賣命は遠く神代の昔、天照大神が天の岩戸に神隠り坐し給うたとき、岩戸の前で神懸りして舞をまわれた女神さまで、古来俳優の始祖、芸能の祖神と仰がれ、普く崇敬の篤い神様である。
天正13年、石田三成が佐和山城を築くに当り、彦根山尾末の麓に移したが、慶長6年彦根藩主井伊直政が徳川家康の命により彦根城を築くに当り、旧社地姫袋の地に復祀した。
爾来藩主井伊家歴代の崇敬特に篤く、多賀大社、胡宮神社と共に造営修復を行われた。
もと千代の宮と称したのを、明治2年千代神社と改め、明治9年郷社、同16年県社となる。
本殿は江戸初期の建造物として、昭和24年2月国宝に指定せられた。
近時産業の発展に伴うセメントの公害に対処し、本殿の防護と維持確立を図るため、旧社地の全域を工場拡張敷地に提供し、元大橋邸の現在地に移転を計画、昭和41年着工、翌41年5月竣成した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




千代神社

当社の創立年代は明らかではないですが、社伝によれば人皇第八代孝元天皇の皇女倭迩迩姫の降誕によって勧請し、履中天皇の御代に再建されたと伝えられる彦根で最も古い神社です。もともと千代宮(ちよのみや)と称していましたが、明治2年 千代神社と改称され、明治16年には県社に指定されました。
ご祭神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れられた世の中が暗闇となった時、岩戸の前で神がかりして舞を舞われ、天照大御神の心を和められ、世の平安と明るさを取り戻すためにご活躍された女神さまです。古来、俳優(わざおぎ)の始祖、芸能の祖神と仰がれ、あらゆる芸事の上達を願われる人々から篤く信仰されています。また脇祭神としてではなく、主祭神として祀られているのは非常に珍しいといえます。
往古から佐和山の麓にご鎮座されていましたが、昭和41年に現在の地に移りました。
寛永15年(1638)に修復された本殿は、三間社流造り、檜皮葺きの極彩色の鮮やかな桃山時代の様式を残す見事なもので、国の重要文化財に指定されています。

公式HP



千代神社

創祀年代は不詳であるが、社伝によると、孝元天皇の皇女、倭迹迹姫の降誕により勧請、履仲天皇の御宇再建したといわれている。天正十三年、石田三成が佐和山城を築くに当り、姫袋の地より彦根山麓の尾末の地に移したが、慶長六年、彦根城藩主井伊直政が徳川家康の命により、彦根城を築くに当り、旧社地の古沢町姫袋の地に復祀した。爾来藩主井伊家歴代の崇敬篤く、造営修復が行われた。
もと「千代之宮」と称したのを明治二年「千代神社」と改めた。明治九年郷社、同十六年県社になる。本殿は桃山末期から江戸初期の建造物として昭和二十四年二月に国宝に指定され、その後の法の改正によって昭和二十五年八月重要文化財建造物となった。
なお、当社が古沢町姫袋から現在地に遷座したのは、セメント公害を避けるため旧社地をセメント工場に提供し、元大橋氏の屋敷に昭和40年1月に遷宮の工をおこし、翌41年5月に竣成、現在に至っている。

滋賀県神社庁




千代神社

由緒略記
神社名 千代神社
祭神名 主祭神 天宇受売命 脇祭神 猿田彦命
鎮座地 彦根市京町2−9−33
本殿 三間社流造檜皮葺
(昭和25年8月国の重要文化財に指定)
例祭 5月4日5日 秋祭10月10日 月次祭毎旦日・15日
由緒沿革の概要
当神社の創立年代は明らかではないが社伝によれば人皇第八代孝元天皇の皇女倭迩述姫の降誕によって勧請し履中天皇の御代に再建されたと伝える古社である。
もと千代宮と称していたが明冶2年千代神社と改称され、明治9年郷社明治16年には県社と指定されていた。
ご祭神の「天宇受売命」は記紀等の記述によれば天岩屋戸神話(天照大神が須佐之男命の乱暴を嘆かれて天岩戸に神隠れされて暗闇となった時そのご再現を仰ぐため神がかりして歌舞され世の平安と明るさをとりもこもされた話)や天孫降臨神話での活躍が伝えられる女神さまである。
古来そのこ神功を称え俳優の始祖神芸能の守護神として歌舞演芸等の諸芸にたずさわる人々の崇敬が篤く、また世にやすらぎをもたらす神として庶民の尊崇も集めている。
往古から佐和山の麓姫袋(現古沢町)に鎮座されていたが、天正13年石田三成が佐和山城を築くにあたり彦根山麓の尾末(現尾末町)に移築慶長6年彦根藩主井伊直政が彦根城築城に際しふたたび旧社地姫袋にお移ししてそれ以後井伊家の尊崇篤く多賀大社胡宮神社等と共に神域の護持がはかられてきた。
爾来約三百年間幾多の変遷を経ながらも産土信仰などとも相まって地域の氏子の信仰を集めて戦後の混乱期も乗り越えてきたが、昭和30年代後半の急激な経済成長期、隣接するセメント工場の増設拡張による粉塵公害に対処し重要文化財のご本殿の護持と神域保全をはかる目的で当神社の移転を計画この土地(旧犬橋邸)を求めて氏子の同意文化財保護委員会の許可を得て昭和41年3月に移転工事の竣工、同年5月正遷宮祭を斎行し現在地を悠久の静宮として鎮座されたものである。

社頭掲示板




都恵神社

都恵は假字也○祭神岐神(考証)○在所詳ならず
考証に、今云千代宮、在彦根東四五町許山腰」與地志に、千代宮は多賀神社末社なりとは云ど、都恵神社とは云ず、祭神は岐神なりと云り

神社覈録



縣社 千代神社

祭神 天宇受売命
当社は孝元天皇皇女倭迹々姫命御降誕に依り鎮座し奉ると云ひ伝ふ、履中天皇御宇社殿を造営せられ、反正天皇3年]2月平群木菟宿禰詔を奉じて再営、清寧天皇の御宇特に祭儀を定め給へり、後世兵乱の時代にも幸に兵火を免れ給ひ、元正13年2月石田三成姫袋の社地より彦根山尾末の麓に遷座し奉りしを、慶長6年彦根藩主井伊直政徳川幕府の命を奉じて、当社地姫袋に復座し奉りき、寛永3年徳川幕府より多賀神社と共に造営せらる、本社は往昔より千代宮と称せしを、明治2年千代神社と改称し、同9年10月郷社に列せられ、同16年10月県社に昇格せらる、御神体は木像に坐ませり、社殿は本殿、拝殿、神樂殿、神餞所、社務所、唐門透塀等あり、社地は東海道線彦根駅を距ること僅に四丁、山麓にして、後に姫袋の山を負ひ、北に佐和山城趾を控へ、西に彦根城を望みて眺望甚だ好く、老杉古檜鬱蒼として閑雅幽邃の地たり、境内は1418坪(民有地第二種)あり。

明治神社誌料



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