胡宮神社
このみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多何神社 二座 近江国 犬上郡鎮座

   【現社名】胡宮神社
   【住所】滋賀県犬上郡多賀町敏満寺47
       北緯35度12分55秒 ,東経136度17分12秒
   【祭神】伊邪那岐命 (配祀)伊邪那美命
   【例祭】4月21日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】由緒不詳
       戦国時代、浅井長政・織田信長の兵火により焼失
       天正15年(1573)織田信長により、敏満寺の旧領地3ケ村を与えられ再建
       寛永15年(1638)徳川家光により造営
       明治2年胡之神社と改称
       明治14年郷社
       明治19年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは桜宮といい多賀町桜町にあった
        9世紀から10世紀前半の敏満寺創立のとき、守護神として現在地に移

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】熊野神社

多賀胡宮とも呼ばれる多賀大社別宮。式内多何神社 二座のうち一座を祀るという。
神社の背後には神体山青龍山があり。その山頂近くには磐座がある、またどんな旱魃のときにも枯れないという古井戸がある。
古来、多賀大社の奥院として旧敏満寺境内内に鎮座する。もとは桜宮といい多賀町桜町にあったものを9世紀から10世紀前半の敏満寺創立のとき、守護神として現在地に移したと伝える。
当社祭神を多賀神社二座のうちの一座伊邪那美命として、延期式にいう祭神二座とは、当社一座と多賀神社一座とを併せたものとする説がある。


胡宮神社

明治神社誌料によると「創建年代詳ならずと雖も、本社に赤染衛門の願文を藏するより見れば、少なくとも一條天皇以前の建立なること明らかなり、與地志略に多賀大社と関係ある由記たるに考ふるも、其の古社たることしるに難からず、降って北朝の文和2年、後光厳天皇濃州より還御の途次、足利義詮等の供奉にて當社に詣で給ひし事あり、當時社運の隆昌なりしこと以て推知すべし、されど文献の徴すべきものなく、其の後数百年間の沿革明らかならずと雖も、蓋し戦国乱離の世を経て社殿も漸く荒廢したりけむ、後水尾天皇の寛永15年に再建の擧ありしこと社記にみえたり」と記してあり、更に社伝によると、敏達天皇の勅願所で聖徳太子の創祀といわれ、鎌倉時代の頃から隆盛をきわめた敏満寺の守護神と祀られてきたといわれている。建久の昔、俊乗坊重源が東大寺再興の砌り延寿の祈願をしたともいわれている。江戸時代には福寿院が別当として支配し、安永より享和のころ僧声海世代の時には社運隆盛をきわめた、慶応4年神仏分離により、別当職を廃し、また、それまで多賀大社胡宮大明神と称していたのを明治2年、胡之神社と改称し、明治14年郷社、次いで同19年県社に列格し胡宮神社と称した。

滋賀県神社庁



胡宮神社のみ光を仰ぐ

ご祭神  伊邪那岐大神・伊邪那美大神・事勝国勝長狭命  悠遠な上古より青竜山のいただきにご鎮座。寿福・延命・授子授産などあらたかなご神徳は遠近にあまねく、みいずと慕って詣ずる人は今にあとをたたない。
 仏教の渡来によって、この地に天台宗敏満寺が創建されると、やがて山麓に社殿が営まれ、その守護神としてあつくまつられるに至った。  平安の昔、女流歌人・赤染衛門は童子守護の願文を奉り、建久(養和の誤記)のはじめ、東大寺再建にあたって重源上人は、ご社頭に七日の参籠をおさめて延命し、後光厳天皇は美濃より都にお帰り途次、み車を留めまして一夜をご宿泊、戦国の世、元亀天正の兵火は社殿の大半を焼失させたが、徳川三代将軍家光公の篤志によって寛永15年復旧を見ることができた。江戸時代には、お乳人が参詣し皇子皇女のご安泰祈願がおこなわれるなど、ご霊徳の数々はあげるにいとまもないが、明治19年にば県社にご列格昭和21年以降は宗教法人胡宮神社に改められた。
ゆれやまぬ世情ながら人々の崇敬の心はここにあつまり、湖東の名社郷土の氏神として遠く永くまつりつがれ広大なみいずはいよいよ四辺にかがやきご社運ばますますみ栄えをま加えられることであろう。

社頭石碑



胡宮神社社務所庭園

胡宮神社社務所庭園(国指定名勝 昭和9年12月指定)
この庭園は、胡宮神社の別当として権威を振るった福寿院書院のものである。制作年代は明らかでないが様式から江戸時代中期頃と推測される。
自然の傾斜地を利用して築山をつくり、つつじ・さつきなどの植え込みがあり、ところどころに立石をまじえで、前面に池が掘られている。池には島がない代わりに、浮き石の上えに小さな木造の亭が建てられている。
鑑賞は、書院からするように造られている。鑑賞式林泉園で、池泉と築山の構成が絶妙である。
多賀町教育委員会・敏満寺史跡文化保存会

社頭掲示板



石仏谷

敏満寺遺跡石仏谷(多賀町指定史跡)
敏満寺遺跡は、青龍山・胡宮神社と名神高速道路多賀サービスエリアを含む大きな遺跡です。
石仏谷は、胡宮神社境内の南200mの青龍山麓の斜面にあり、以前から地元では石仏が散逸している場所として「石仏谷」と呼ばれ、伝えられてきました。
平成7年に敏満寺区より石仏を並べ、供養をしたいということで多賀町町教育委員会にて分布調査を実施しました。その結果、約7,000uに広がる中世墓地郡であることが判明しました。
斜面の自然地形を利用して、雛壇上にいくつかの平坦部が設けられ、多数の墓地郡が存在していることが確認されました。盛り土や自然石、石仏や五輪塔などを利用したいくつかの形式の墓があり、中世当時の状態で残存しています。
しかし、現状は自然崩壊や盗難盗掘などもあり、良好な状態ではありません。
保存のための整備が必要とされています。
日本に残る中世墓地資料として貴重な遺跡であることから平成14年4月に多賀町指定史跡として保存整備事業を実施することになりました。
また、多賀サービスエリア内の発掘調査で、中世都市として遺跡全体の重要性が高まり、注目されることになりました。
今後の石仏谷の調査は、日本史にとつても貴重な資料となり、中世都市敏満寺のなぞを解く鍵になると思われます。
敏満寺史跡文化保存会

社頭掲示板



敏満寺仁王門

犬上郡多賀町敏満寺
敏満寺が初めて文献上に表われるのは、天治2年(1125)3月の「平等院長史坊政所下文」で、平等院の末寺に属し清涼山と号していた。寺の創建については聖徳太子説、慈証上人説、敏満童子説等があり、東大寺領水沼荘と関係の深い敏満童子説が有力視されている。その時期は九世紀末から十世紀初頭と考えられている。寺はその後、皇室や院の崇敬をうけ、栄華をきわめ、永禄年間までに百餘坊を数える堂宇を有し、湖東三山に匹敵する巨刹であったといえよう。しかし、永禄5年(1562)9月久徳氏を救援したため浅井長政に攻撃をうけ、坊舎は灰燼と帰した。さらに元亀3年(1572)織田信長の命に応じなかつたため、寺領は没収され、残りの堂塔も焼き払われ廃寺となった。焼け残った唯一の福寿院は胡宮神社の別当となつている。
当仁王門跡は、依然から礎石が露出しており、昭和34年名神高速道路建設に伴なつた事前調査で、十二個の礎石をもつ門跡であることが判明した。規模は南北約11m、東酉約6mで、中央部の柱間は約4.8mを測り東側に葛石とみられるものも検出された。また、当地からは瓦類は一点も出土せず、檜皮葺か、こけら葺であつたと考えられている。このことからこの門跡は県下でも有数の規模をもつ仁王門といえよう。なお、礎石の表面はいずれも焼け、火災にあつたことを物語つている。
昭和26年7月
日本道路公団 滋賀県教育委員会

社頭掲示板




磐座

青龍山の頂上に大きな岩がある。
大昔からこの岩を磐座」と呼び深く信仰して龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞いの祈願をした。
これを原始信仰と云い、麓から遥拝するため社殿を造ったのが胡宮である。
磐座は胡宮の奥宮であり多賀大社の奥の院と呼んだあ時代もある。
頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般の人は立ち入りせなかった。
「お池」で身を清め、供物を洗い祭典の広場で、春秋の祭の式典を行った旧跡もある。
胡宮磐座は社伝信仰以前の原始信仰の姿を見せてくれる神体山である。
滋賀県内でも数少ない山岳信仰の聖域である。

社頭掲示板



縣社 胡宮神社

祭神 伊弊諾尊 伊弉冉尊
相殿 事勝國勝長狭命
創建年代詳ならずと雖も、本社に赤染衛門の願文を蔵するより見れば、少なくとも一條天皇以前の建立なること明らかなり、與地志略に多賀社の末社なる由記しだるに考ふるも、其の古社たること知るに難からず、降つて北朝の文和2年、後光厳天皇濃州より還御の途次、足利義詮等の供奉にて当社に詣で給ひし事あり、当時社運の隆昌なりしこと以て推知すべし、されど文献の微すべきものなく、其の後数百年間の沿革明らかならずと雖も、蓋し戦国乱離の世を経て社殿も漸く荒廃したりけむ、後水尾天皇の寛永15年に再建の挙ありしこと社記に見えだり、世俗本社を命乞の社、又は寿命の神と称し、当社に祈れば命を延ぷといふ、旧時は別当附属し福壽院といへり、社格は明治13年郷社に列せられしが、同19年縣社に昇格す、本社の宝物として現に存するものは、前記赤染衛門の祈願文、并に二條良基公の小島記などあり。
社殿は、本殿、拝殿、寵殿、社務所等を具へ、境内地1462坪(民有地第二種)を有す、地は彦根の東南に位し、東は丘陵に連り、西は坦々たる平野に接して展望開豁域内瀟洒たり。

明治神社誌料



近江国INDEXへ        TOPページへ

学校DATA