石部神社
いそべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石部神社 二座 近江国 愛智郡鎮座
          (旧地)石部神社(旧地)

   【現社名】石部神社
   【住所】滋賀県愛知郡愛荘町沓掛147
       北緯35度10分58秒,東経136度12分59秒
   【祭神】天照坐皇大御神 天日方奇日方命 (配祀)国造大名牟遲尊
       大物主命と久斯比賀多命と上下二祀に分配したのが起源と思われる

   【例祭】4月15日近い日曜日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇7年3月天日方奇日方命を祀る
       次年9月大名牟遅尊を相殿に勧請
       垂仁天皇の時天照坐皇大神を正座に奉祀
       神護景雲元年(767)3月宮帳に記せらる
       仁寿元年(851)正月正六位
       寛平元年(889)正月神領寄進
       延喜5年(905)官幣社
       延宝7年(1679)5月23日正一位
       明治9年10月村社
       同15年郷社
       昭和5年県社

   【関係氏族】石部公・石作部
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       中門・神饌所・拝殿・神輿庫・祭器庫

   【境内社】式内石部上社
   【神宮寺】上社と下社の中間に神宮寺があり善法寺と称した

延喜式に石部神社は二座とあるが、これは石部神社の上社と下社の二座を指したものであろう。現在の鎭座地は下社である。上社は旧磯部村の中にあつた。応仁、文明の乱に兵火にかかり、以後上社は下社の境内に合祀されたという。上社の地は今、御旅所となつている。


石部神社

史跡 石部神社
石部神社は、天照大御神・天日方奇日方命・大名牟遅命の三座を祭神としている。社伝によると崇神天皇7年3月の創祀と伝えています。当社は、「式内社」とは、延喜5年(905)年に藤原時平・忠平が後醍醐天皇の命により編さんした、延喜式「神名帳」に記載されている神社のことです。式内社は、全国に2861ヶ所あり、古代律令体制の下『延喜式』の規定によって、神砥官から祈念の幣帛を秦っていよした。
これら式内社は、元慶年間(877−884)に式内社に撰ばれ、当社もその中に含まれています8。このように朝廷から鎮護国家を祈念する栄誉を与えられました。
石部神社の石部は、部民制の石作部が変化したと考えられます。石作部が大きな力を持って式内社に撰ばれることになりました。
式内社としても知られています。
平成2年3月
愛知川町教育委員会

社頭掲示板



石部神社

延喜式内社で崇神天皇の御代天日方奇日方命を祀る。後年神託により国造大名牟遅命を相殿に勧請し、垂仁天皇の御代に天照大神倭笠縫邑より度会邑に遷らせ給う途次当社に半歳奉安したことにより元伊勢乃石部之宮と称し、天照大神を主神として奉斎した。天正年間僧行基は大日如来、十一面観音、延命地蔵の三躯を本地仏として配祀するなどのこともあった。武家の尊敬も篤く、後鳥羽上皇は戦勝御祈願のため名刀と菊桐の紋章を奉納されたとも伝えられている。再三兵火に遭っているが都度復旧し、明治初年石部神社と改称し同9年村社に、同15年郷社となり昭和5年更に県社に昇格した。本殿、祝詞殿、中門等は昭和4年神宮御遷座の古材によって建設されたものである。

滋賀県神社庁



石部神社

石部神社は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式]にその名がみられる。
社伝の一つには神護景雲元年(767)石部公行冨の創祀と記され、石辺公の始祖、久斯比賀多命(天日方奇日方命)が祭神に含まれることから、「石部」や「石辺君」などの古代氏族と関係が深い神社であるとされる。
かつては上社と下社に分かれていたが、応仁の乱で上社は罹災し、下社(現在地)境内に移されたと伝わる。上社の跡地は磯部の小字善法寺方といわれ、現在は石部神社の御旅所となっている。
本殿の右奥に位置する境内社は上ノ社と呼ばれ、寛政3年(1791)の棟札が残る。もとは本殿であったが、新本殿造営のため昭和18年(1943)に現在地に移築された。
平成26年3月
愛荘町教育委員会

社頭掲示板



石部神社 二座

石部は伊曾倍と訓べし○祭神石辺公祖神歟○沓掛村に在す、砥部土橋二村産土神なり(與地志)
姓氏録(左京神別下)石辺公、大物主命男久斯比賀多命之後也、`
類社
(欠く)

神社覈録



郷社 石部神社

祭神 天照坐皇大御神 天日方奇比方命
相殿 國造大名牟遅尊
創立は崇神天皇7年3月にして、初め天日方奇比方命を石部邑に奉斎せしが、翌8年9月大名牟遅尊を相殿に勧請し、次いで垂仁天皇の28年3月、奇比方命の神託により、天照皇大神を正座に奉祀せりといふ(社伝)、文徳天皇仁壽元年正月正六位上を奉授せられ、醍醐天皐延喜の制小社に列す、爾後進階十度に及び、霊元天皇延宝7年正一位に進められだり、故に明治維新前迄は正一位式内石部神社と称したり、明治9年10月村社に列し、同15年8月郷社に昇格せらる、社殿は本殿、拝殿、神輿庫、祝詞殿、渡り殿、社務所等あり、境内凡1430坪(官有地第一種)并に民有地619坪を有せり、御神体は八花形宝鏡にして、宝物は天和元年書写の石部神社記、応永9年書写の石部神社記あり。

明治神社誌料



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