大きなこんもりとした島。平地。叢林多い。 軽野神社は「山城国葛野の別」が近江の蚊野に分住し祖神を祀った社。 奈良朝時代東大寺の寺領となり、春日神社と称した。 中世に神宮寺である金剛輪寺の奉斉する処となる。 |
由緒 当社の創立の人皇第十一代崇仁天皇の御宇にして軽我孫公(カルアビコノキミ)は第十三代成務天皇の御宇(ミコ)軽野地三千代を御供奉田として奉納せられ貞観8年7月清和天皇は国家大平五穀豊熟の勅願をなし給ひ応永25年佐々木京極時高は武運長久を祈願がれ金口一口を寄進、文明2年9月多賀豊後守高忠は神領安堵状を寄進、安孫子日向実綱は宗家より拝領せし劒及薙刀と御供料として高三十石を献上萬治3年勧修寺宮良尚法親王は親書を修め給ひ元禄4年藩主井伊直興公は金燈蘢一対を寄進さる。祀職は往古軽我孫公の子孫が奉仕せしも中世に至り神宮寺である金剛輪寺の奉斉する処となり神前に法楽を奏せし記録がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
軽野神社 主祭神 袁邪本王 相殿 日子坐王 摂社 天津児屋根命 当神社の創祀は人皇第11代崇神天皇御宇にして延喜式内社なり第13代成務天皇の御代軽我津公は軽野地三千代を御供奉として奉納せられ貞観8年清和天皇は国家太平五穀豊穣の祈願をなし給い貞治6年佐々木道誉は甲良荘東方の地を造営料所として寄進さる応永25年佐々木京極時高は武運長久を祈願され金口一口を寄進す文明2年9月多賀豊後守高忠は神領安堵状を寄せられ明応6年我孫子日向守実綱は武運長久祈願のため宗家より拝領せし剣及び薙刀御供田を献る万治3年勧修寺宮良尚法親王は親書を修め給い元禄3年井伊直興公は金灯籠一対寄進さる。 社号は住吉軽野神社と称え軽田公神社我孫子春日神社を経て軽野神社に復称し堅井之大宮は通称なり 社頭掲示板 |
軽野神社 延喜式内社で「彦坐王子袁邪本王者近淡海蚊野之別祖也」とあり、新撰姓氏録には「軽我孫公、治田連同祖、彦坐命四世孫白髪王之後也」とある。日本書紀、大日本史、風土記、近江輿地誌略、特撰神名帳、淡海木間攫等にも記載されている古社である。皇室及び武家の尊敬篤く幾多の寄進物があり、春日大明神、軽野春日二社大明神、安孫子大明神、堅木之宮とも呼ばれた。明治9年軽野神社と改称して村社に列し同14年郷社に、更に郷内の諸社を合祀して大正12年県社に列した。 滋賀県神社庁 |
軽野神社本殿 本殿は三間社春日造、春日造は奈良の春日大社本殿形式に代表される名称で、切妻造の妻入り社殿に片流れの庇を付けた本殿をいう、片流れ庇とは向拝のことで、身舎の柱間が三間あるときは向拝も≡間になるのが本来の形式、この本殿は向拝が一間であるから春日造の変形である。 縁高欄の擬宝珠に江戸中期、宝永2年(1705)の年号が刻まれ、この頃に本殿が完成した。平面は正面三間、側面二間、内部は前後に内陣、外陣に二分し、内陣は床を一段高くする.柱上の組物は平三斗に蟇股を備える。動植物が見事に彫られた10個の蟇股を建物四周囲に飾るのは珍しい、屋根は檜皮葺、軒付を厚く積み、棟飾りに千木、鰹木をのせる。 県内には春日造本殿は非常に少なく春日造社殿の系統を引く建物としで重要である。 平成16年3月 愛荘町教育委員会、 社頭掲示板 |