平地にあり。叢林こんもりとした島となっている。 軽野神社は「山城国葛野の別」が近江の蚊野に分住し祖神を祀った社。 奈良朝平安時代は興福寺の寺領となり、春日神社と称した。 近世は附近に大安寺、頓行寺があり、寺僧が祭祀を奉仕した。 |
由緒 延喜式に愛知郡式内三座軽野神社一座とある古社なるが未定である。袁邪本王は近淡海蚊野別の租で末裔我乞いに往して蚊野郷となり往古より軽野神社として其の租を祀り来る。奈良平安朝此地方興福寺領となり春日大明神と称す。元亀の兵火に罹り灰燼に帰すも元禄12年拝殿を再建享保10年本殿を改築し氏子の篤き信仰に今日の壮厳な規模となる。 明治9年村社に列し同14年郷社に加列同年軽野神社の旧号に復す。同43年神饒弊帛料供進の神社に指定された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
軽野神社 延喜式に愛知郡式内三座軽野神社一座とある。袁邪本王は近淡海蚊野別の祖で末裔がこヽに住して蚊野郷となる。一族に穴田君、熊取王、徳万君等がありこの末流が蚊野氏を称している。奈良、平安の頃は興福寺領となったことから春日大明神とも称したことがあった。元亀の兵火に罹り古記録など灰燼に帰した。明治初年までは春日神社と称していたのを明治14年本社号に復し郷社に列し同43年神饌幣帛料供進指定となる。 滋賀県神社庁 |
輕野神社 輕野は加留乃と訓べし、和名抄、(郷名部)蚊野とある此地歟、○祭神詳ならず、或云、天稚彦、○高野瀬村に在す(以上與地志) 古事記、日子坐王子哀祁本王者、近淡海蚊野之別祖也、 類社 伊豆國田方郡軽野神社、伊勢國度會郡蚊野神社。 神社覈録 |
郷社 軽野神社 祭神 哀邪本命 相殿 彦坐命 別殿 玉依比売命 創祀の年代詳ならすと雖も、開化天皇の皇孫哀邪本命当国の國造として、此の郷に住み給ひしを以て、其薨後に社殿を建て祀りたるものなるべし、猶当地には命の裔穴田君、熊取君徳萬君等住みて、耕作の業を教へ給ひしより、それらの御名今猶地名に残れり(土人伝説}、醍醐天皇延喜の制小杜に列す(延喜式〕、降つて南北朝の頃に及ぷや、後醍醐天皇建武年間、七堂伽藍を建て、社僧祭祀に奉仕し其儀甚盛なり、神孫検非違使蚊野師道等南朝に仕へて誠忠二なかりきといふ、正親町天皇天正年間社僧織田氏に抗し、社殿堂塔為に兵焚にかゝりて焼失す、之より漸次頽廃してまた旧観を存せざりしが、明治6年漸く復興して祠掌を置き、9年村社に列し、14年郷社に列す、此に於て神威復び赫々たり、境内3518坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿他神輿庫、祭器庫、山車庫、社務所等あり、賽途櫻樹を植ゑ、眺望甚佳なり、御神体木造にして、宝物は木製高麗狗、假面。太刀、甲胃、及軽野記一巻、社格記一軸等あり、一書に曰く「今按ずるに此の神社の所在は、北蚊野村、蚊野外村、岩倉村、高野瀬村四所に在り、蚊野外村御霊社は字輕野に在り、又愛智王森といふ、其の社伝に、蚊野庄の中央に当りて蚊野外村あれば、蚊野といふは此の地なり、検地帳にも四反八畝歩、宮屋敷、村高に不入と見えて、庄内の他村に此の例なしなどいへるのみにて、証とするに足らず、岩倉村軽田公春日神社、今我孫子輕田碑社と改称す、社伝に、氏子十二村の内九ケ村は我孫子庄、三村は甲良庄なれど、往古より我孫子庄を蚊野庄といふ、姓氏録治田連あり、当郷を治田郷といひ、又軽野我孫子公賜軽地三千代とある、軽の地は当村なり、両姓を合せて輕田公宮といふ、元禄3年検地帳に、軽田公宮社地一町八反三畝二十五分除之とあるを証としたるは由あるが如し、されど、両姓を合して社号とする事疑はしく、軽田公杜と云ふときは、軽野神社にはあらざる事明かなれば從ひ難し、又高野瀬村柏木神社なりといへど、祭神天稚彦命にて軽野神に由なし、與地志略には、当村を以て軽野神社に当てたれども、一説を挙げて、祭神の名によるに、若くは式外の天若御子神ならんといへる説当れり、是亦軽野神社ならぬ事明なり、唯北蚊野村なるぞ式社に当るべき、さるは古事記に「開化天皇皇子日子坐王子哀邪本王者淡海蚊野之別租也と見え、神社のある所を蚊野郷北蚊野村と云ひ、社伝に昔哀邪本王此郷に下り住み給ひしが、薨去後社を建て崇祀す、此の王の子孫に穴田君熊取君徳萬君等此に住み給ふ、今も田地に其名残れり、中昔迄は上蚊野村蚊野外村安孫子も当社の氏子なりしを、後に故ありて各村の鎮守を氏神とせしなりと云ひ、又古来粥占神事ありといふ等、証あるを以て此社と定めて記せり」と、本社にも粥占祭とて特有の神事あり、一月十五日払暁神前に大神鍋を据ゑ、元旦に献りたる餞米。大鏡餅、小豆等を炊ぎ、十二個の竹管を人れて其年の五毅の豊凶を占する祭事なり、夫木集に「うらやみに愛知の郡にいぬをすゑて神と君とにつく初穂かな」とあるは即ち之を詠めるなりといふ。 明治神社誌料 |